|
2012年8月20日
お盆が過ぎ、少しずつしのぎやすくなってきたとはいえ、
まだまだ日中は日差しがきつく、
炎天下で走り回るのはかなりの重労働です。
今日のスーハことばは「すぐに動く」、
このことばに従い、今日も一日元気を振り絞って顔晴りました。
日々のスーハことばを意識して生活するようになり、
すべての物事が秩序だって進んでくるようになったのを感じます。
今日は久しぶりにスーハの創始者であるスーハゆうじんさんと
電話でお話ししたのですが、ある方が、
「スーハはノーベル賞に匹敵する発見です」
と賞賛してくださったとのことです。
価値はそれをいかに活かすかということにかかっているとするならば、
スーハは無限の可能性を持った知恵であり、
それを十分に活かしたならば、人類にとって無類の価値をもたらし、
通常のノーベル賞の発見以上の恩恵を人類に与えるものだと信じています。
日々のスーハことばは、このメールマガジンにも紹介されています。
是非とも活用してください。
<スーハメルマガ [まぐまぐ!]>
知り合いとメールのやり取りをしたり、
直接ことばを交わしていると、頭の中にいろんな思いが湧き上がってきて、
胸の中にあるものを形として引き出してくれます。
昨日は、知り合いのエレクトーン奏者の方と初対面のピアノ教室の先生と、
三人で五時間ほどとりとめのない会話を楽しみました。
やはり「類は友を呼ぶ」のでしょう、
本来の話のテーマとは別に、スピリチュアルな話題で大いに盛り上がりました。
私が目指しているスピリチュアルな世界は、
多くの人が関心を持っているそれとは少し異質なものかもしれませんが、
今の依存的御利益主義のスピリチュアリズムは、
近いうちに必ず崩壊の時を迎えるであろう、またそうならなければならないと、
あらためて感じました。
陰と陽が和合するこの時空は相対の世界です。
そんな中で普遍的な『まこと』を説く文明法則史学、
そこから導かれるこれからの時代の流れに間違いはありません。
今も昔も、多くの人が占いに大きな関心を寄せています。
それを真理を解く鍵とみるか、
一種の宝くじのような夢を見るための娯楽ととらえるかは人様々です。
占いが大好きだという人がいる一方、
占いを頭から否定する人も数多く存在します。
占いを否定する人の中に、
「占いなどは単なる統計学に過ぎない」
と批判される人がいるのですが、これはまったくの誤りです。
血液型、星座、名前、・・・こういった占いから示される結果が、
もし統計的に有為なものであるならば、
それはそういった要素が、
人の性格や運命に明らかなる影響を与えているということであり、
それは世紀の大発見です。
そしてそれを統計的に正しく示すものが占いなら、
それだけで十分に存在価値があるはずです。
そうではなく、占いにもし問題点があるとするならば、
そういった統計的な有意性の検証をまったくせず、
ただ結果のみに人の関心を集めさそうとするところにあるのだと思われます。
そしてもうひとつは、占いが好きな人は依存的傾向が強く、
その結果を信じ込み、頼り、
己の内面を自らの知恵と努力で見ていこうとしないところがあり、
それが占いを毛嫌いする人を生む要因になっています。
そういった問題点は現在の宗教にもあり、
絶対的な権威、厳密で善悪に区分された教義、
それが金属的な硬い組織によって運営され、
人を強い力で導くとともに、
人の心の主体を、自分の内から外へと引っ張っていってしまいます。
そのすべてが悪いというわけではありません。
それはそれでこれまで大きな役割を果たしてきて、
またこれからも果たしていくでしょうが、
やはり時代の流れは着実に進んでいて、
多くの人がその中に疑問や欺瞞を感じるようになってきているのも事実です。
宗教が人の心を導くものであるならば、
トイレ掃除は新しい時代の宗教です。
実践を通して心を磨き、自分の中の気づきでもって自分の内面を変革する、
まさにこれから始まる水の時代にふさわしいものだと言えます。
私の周りにはトイレ掃除を熱心にする人がたくさんおられますが、
そのほとんどすべての人たちが、
「トイレ掃除をすると奇跡が起こる」と言われます。
私自身それは何度も身をもって感じました。
トイレ掃除ほど短期間に人の心を変え、
奇跡を呼び、運命をも変えるものはないのではないかと思います。
これを理屈で考えたならば、
この世は陰陽のバランスが基本ですので、
最も下座の行為であり、
生命に関わる食べ物の最終到達点である糞尿の始末をきちんとするということは、
その対極である最も尊いもの、生命の入り口にあたるところに影響を与えるのは
必然ではないでしょうか。
トイレ掃除は本当に素晴らしい、
けれど素晴らしすぎるがゆえ、やはり依存的になり、
自分の心を外に向けさせ、
本来対峙しなければならない自分の内面の課題から
目をそらさせてしまうということにもなりかねません。
ですから、私は今トイレ掃除から半歩身を引いて、
会としての活動は積極的にするものの、
自分一人で公衆トイレを掃除に行くことは自粛しています。
本当に大切なものを見失うことなく、
自分の中に最高の価値を見いだせるのであれば、
どんな宗教でも、スピリチュアリズムでも、またトイレ掃除でも、
その『手段』はまったく問題にはなりません。
みんな違ってみんないい、ですね。 (^_^)/
そんなことを、昨日から今日にかけてあらためて考えました。
わたしと小鳥とすずと 金子みすゞ
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
明日で宮島のトイレを掃除をしてからちょうど一ヶ月です。
その時の模様を収録した動画を、まだご覧になっていない方は是非見てください。
楽しいトイレ掃除の様子がよく分かります。 (^o^)v
2012.8.20 Monday
|