終戦記念日に考える
今日は太平洋戦争が終わってから62回目の終戦記念日です。

「もはや戦後ではない」と経済白書に記された1956年から半世紀以上の時が流れ、
戦争の記憶は遙か彼方に消え去ってしまったといっても過言ではありません。

しかし毎年この終戦記念日になると話題になるのが、
現役首相、閣僚による靖国神社参拝、その海外からの反響です。

時の首相であった小泉総理が15日に参拝をした昨年と違い、
今年は安倍総理は靖国に参拝せず、
現役閣僚では高市早苗少子化担当相のみが参拝ということで、
あまり大きな話題(問題?)にはなっていませんが、
この靖国参拝、また従軍慰安婦、南京大虐殺の問題等、
太平洋戦争に根を持つこれらの問題が、
戦後62年経った現在でも、大きな政治・外交問題となっている現状を見ると、
まだまだ太平洋戦争の清算は終わっていないことを強く感じます。

現在のように、これだけマスコミ、ネットによる情報網が発達し、
自分の得たい情報がほぼ瞬時に手に入り、
また双方向でのやり取りが可能になったにも関わらず、
靖国、従軍慰安婦、南京大虐殺、これらきわめて重要な問題に対して、
日本、中国、韓国など立場の異なる国、その国の人々が統一した見解、歴史観を持てず、
それぞれ違った意見を持って対立しているのは、とても残念なことです。

ひとつの歴史的事実に対して民族間で対立が生じるというのは、
致し方のないこととして多少理解することはできますが、
従軍慰安婦、南京大虐殺の問題は、それ以前の
「日本軍による強制連行の事実があったのか」、
「南京に於いて当時30万人もの民間人の虐殺があったのか」
という事実認定の段階でいまだ意見が対立しているという現状は、
己(民族)の利害が絡んだ問題に関して人はいかに目が曇り、
正しく物事を判断することができないのかという、
大げさに言うなれば、人間というものの愚かさを表わすひとつの象徴のように思えます。

日本国内でもこれらに関しては大きく意見が分かれ、
しばし論争の火種になっています。


私も当然ながら、
それぞれの問題について自分なりの考えというものを持っているのですが、
周りの人たちの意見を耳にした時に、とても気になっていることがあります。

国外のことは分かりませんが、
日本に於いては、これら歴史的シビアな問題を論じる大部分の人たちが、
様々な関連していると思われる問題をひとつのセットとし、
“思想として歴史的事実認定を行っている”のではと思われることです。

ある考え方を持ち、行動をともにしている人たちのグループは、
様々な歴史認識に対して驚くほど共通したものを持っていることが多いものです。

それらひとつひとつに対して自分で考え、判断し、
たまたま共通したものになったというのならばかまわないのですが、
様子を見ているとどうもそうではなく、
自分として守りたいひとつの信条を核とし、
それに関連した問題は、(ひとつひとつ考えるのではなく)その流れで回答を選択し、
その回答の正当性を証明する事実と思われるものを拾い集めてきて、
自分(自分たち)の論を形成しているではと思われるのです。


私の個人的に持っている考え方と、体験から少しお話をしてみたいと思います。
けっこう当たり障りのあることなので、
一般論としていただければ幸いです。

このホームページをしっかり読んでいただいた方にはお分かりと思いますが、
私の最も関心のあることは、この宇宙の真理を知りたいということであり、
そういった意味では超理想主義者です。

広島に住み、平和、戦争、原爆といったことを常々考えてきて、
平和運動にも関わり、そういったイベントにもたびたび参加してきました。

現実問題として考えるならば、
人類は有史以来数え切れない数の争いごとを繰り広げてきました。
世界中で戦争のまったくなかった時代は皆無ではないかと思えるほど
戦争好き(?)の人類にとって、
戦争という形の闘争は、人間の持つひとつの本能とも言えるでしょう。

ですから平和運動家たちが死守しようとしている憲法九条が絵に描いた理想論であり、
その理想論でもって日本が武力放棄したならば、
日本は即座に外国から攻め入られ大変なことになるという現実論はよく理解できます。

けれども今は歴史のきわめて大きな転換期であり、
環境問題、食糧問題、・・・人類は数年、数十年先の生存をも危ぶまれるほどの
重大な危機を迎え、
今私たち人類全体の生き方、考え方、ものの見方を根底から覆すほどの
巨大なパラダイムシフトをしなければ、
人類はこの地球上に生きることはできないと強く感じています。

ですから私はこれまで人類が為し得なかった戦争のない社会が実現可能で、
それを絶対に作り上げなければならないと信じ、
人類と地球環境が共存できる明るい未来を作り出す運動の一環として、
平和運動に参加し、憲法九条を守る運動を続けています。

先日「日本の青空」という映画を観ました。
平和憲法である憲法九条の誕生を描いた映画で、
これまで一般的に言われてきた「憲法九条はアメリカによって押しつけられたものである」
という認識は誤りで、その大元となった原案は鈴木安蔵という日本人が作ったものであり、
この平和国家日本の宝とでも呼ぶべき憲法九条は、
私たちが大切に守っていかなければならないものである、というものでした。

たぶんこの映画で述べられていることは事実なのだと思います。
しかしその描かれ方に私はとても違和感を覚えました。

敗戦直後の日本に於いて、新しい憲法をどの様に作り直すかという権限は、
進駐軍GHQにありました。
映画の中では、鈴木安蔵を中心とした憲法草案を考える日本人グループの意見を、
“紳士的かつ真剣に日本民族の明るい未来を考える進駐軍”が取り入れて憲法は
作り出されたという風に描かれていますが、
私には到底そのようには思えません。

3S(スリーエス)政策という言葉があります。
戦後日本に対してアメリカが Screen スクリーン、Sport スポーツ、Sex セックス 、
この三つの S を導入し、日本を占領、属国化しようとした有名な政策であり、
その結果、戦後数十年で日本は見事なまでに
古き良き伝統文化の多くを捨て去ってしまいました。

それ以外にもアメリカ自身が仕組んだ9・11テロ、大義なきイラク侵略まで
戦後からこれまでのアメリカの対外政策のあり方というものを見てきて、
当時の進駐軍が“日本民族の将来を憂えて憲法作りを・・・”というのは、
まず99.9%あり得ない話だと思わざる得ません。

けれども平和憲法を愛する多くの人たちの頭の中には、
「最終的に平和憲法を作り出した進駐軍は善」
という図式が頭の中に出来上がってしまっているようです。
この判断(本当は判断ではありませんが・・・)の是非はともかくとして、
ハッキリ言って、これは思考停止状態です。

映画が終わった後、多くの人がスクリーンに向かって拍手をしていましたが、
私はまったくその様な気持ちにはなれませんでした。
それどころか逆に表現の手段を選ばぬこの様な映画で、
憲法九条を穢されてしまったことに不快感を覚えました。


平和憲法を愛する人たち、その中でも市民レベルで運動をされている多くの方が、
太平洋戦争当時の日本軍の罪業を語り、
従軍慰安婦とされた外国の方たちにキチンとした謝罪をすべきだと要求し続けています。

自らの罪を認め、振り返り、謝罪をするというのはとても辛いことです。
けれども同じ過ちを繰り返えすことなく、その上に新しい明るい未来を作り出すには、
絶対に避けては通れない問題です。

たとえ“自虐史観”だと非難されようとも、
戦時中の罪を認め、謝罪することが平和な日本を作る上でとても大切なことであると
私も信じてきました。

三年前に亡くなられた植物さんでご紹介した三上晃先生は、
大学では中国語を勉強し、戦争当時は中国各地を転々としたそうです。

まったく突拍子もない話ですが、
三上先生の発明された植物センサーは、
地下の埋蔵物を写真一枚で判定することが可能です。

ある時三上先生は、ある地点に徳川の埋蔵金が埋まっているのを発見し、
何度もセンサーで確かめ、現地まで行って最終確認までされたそうです。
  (正確には埋めたのではなく、窪地に置き、土を被せてあるとのこと)

推定埋蔵量が数兆円にも上ると思われるその財宝を、
当時よく話題となっていた韓国の元従軍慰安婦の方たちをはじめてする
外国への戦後賠償に使うのならば掘り出してもいいと語られ、
私もその先生の思いを実現すべく、
知り合いの政治家に話をもっていったことがありました。

もうそれは10年ほど前の話です。
その当時は私もまだ元従軍慰安婦の方たちへ謝罪と賠償をしなければ・・・
という考えを持っていたのですが、
その後いろんな考え方を持つ人たちの文章を読み、ニュースを見るにつれて、
「当時の日本軍は外国で慰安婦とするべく女性を強制連行したという事実はない」
ということが真実であると判断するようになりました。

これは様々な資料やニュースソースから私がそう“判断”したのであって、
そういった“思想”を持っているわけではありません。
これはとても重要な点です。

  < 慰安婦問題 おさらい10問10答 >






従軍慰安婦問題の“根拠”とされている「河野談話」の白紙撤回を求める署名サイト
    (私も署名しました)

私たちは学校教育でたくさんの“正しい知識”を教えられ、
それを使い、テストで高い点数を取ることを求められてきました。

いわゆる結果重視ということですが、
本当に大切なものは結果ではなく、それを導き出すためどの様に考え、
判断したのかということにあるのではないでしょうか。

平和を愛する市民運動家の方たちは、
ひとつの理想実現という結果に向かって一生懸命努力されていることは認めますが、
その過程で真剣に物事を考え、判断されているのだろうかと
疑問に感じることが多々あります。

最近はよく知られることとなりましたが、
「日本の青空」で善なる存在といて描かれていた進駐軍のために
当時の日本には性の奉仕をする慰安施設がありました。
  特殊慰安施設協会(PDFファイル)

こういったことは問題にせず、
ただのひとつも裏付けの取れていない証言に基づき、
戦争当時の日本軍による慰安婦強制連行を非難する決議を出した
アメリカ下院議会のことを大きく取り上げるのは、
あまりにもおかしな対応であると判断せざる得ません。

いったん自分の持っている思想を忘れ、
客観的に様々な事実と向かい合ってみてはいかがでしょうか。
ひとつひとつの事実を積み重ねて描いた道、
それが平和へと至るただひとつの道だと信じています。


正しい歴史認識の上に立って物事を判断することが大切であるという意味では、
終戦直後、戦争犯罪を裁くために行われた東京裁判は、
戦勝国側が敗戦国に対して一方的に判決を下す、
まったく客観性のない裁判と呼ぶに値しないものであることは明らかな事実です。

日本側の戦争犯罪者は極刑に処され、
アメリカ連合国側の東京など日本各地に行った大空襲、広島、長崎への原爆投下による
非戦闘員の大虐殺という大罪はまったく裁かれることがありませんでした。

本当に恒久的な世界平和を考えるならば、
この東京裁判のあり方を問うことが必要ではないでしょうか。
今から連合国側の犯罪行為を裁き、
その責任を明らかにし、なんらかの賠償を求めようというのではなく、
やはり歴史の原点となるべく事実は正しく見つめ直すことが必要不可欠だと考えます。

韓国や中国はこの東京裁判の結果に基づき、
戦争犯罪人を合祀している靖国神社への閣僚の参拝を非難します。
  (なぜか戦後数十年経ったから急に言い出したわけですが・・・・)

  < 靖国問題に火を付けたのは報ステの加藤千洋だった! >


日本人でもこの靖国参拝に対して反対の意を唱える人が多くいます。
私個人の考えとしては、「靖国で会おう」を合い言葉に
国を守るため命を投げ出してくれた人たちに対して、
その国の首相、閣僚が手を合わせるのは当然の行為だと思うのですが、
ここでもやはり“セット思想”で、
「憲法九条を守る」 = 「靖国参拝は軍国主義肯定なので反対」
となってしまうことが多いのは悲しい現実です。

  < 金美齢氏 靖国神社で語る >


さらに靖国のことについて言うならば、
靖国参拝を肯定するものは国粋主義者であり、
天皇陛下を日本国の中心と考える天皇制尊重主義者だと、
これもまたセット思想、おきまりのコースとして捉えられているようです。

捉えられている・・・というよりは、
実際にそういう人が多いというのが事実なのでしょうが、
私は違います。

これまで自分なりに宇宙観、生命観というものを学んできて、
この宇宙、時空全体というマクロ的なものから、
ひとりの人間、またその人間の肉体を構成するひとつの細胞、原子に至るまで、
すべてのものに私たちが“神”と捉えている宇宙の最も深い真理を
フラクタル的に属性として備えている、
という真理を知るようになりました。

その真理を知ってしまったならば、
制度的に敬うべき存在を置くということは分かっても、
生まれながらにして人間として尊い存在とそうでない存在があるという
神話時代から続いてきた伝統、伝説を
たとえ話のレベル以上に理解することは不可能です。

陰があるから陽がある、光あるところに影あり、
これはバランス、共生を示す宇宙の根本法則です。

部落解放運動をしている方たちが
「天皇制の歴史は部落差別の歴史である」
と言われるのを聞いたことがありますが、
これはバランスというものを考えたならば至極当然の論理でしょう。

私は別段天皇制を忌み嫌い、
皇居で石を投げたいと過激なことを考えているわけではありません。
この大きなパラダイムシフトの時に、
日本が天皇を中心とした神の国から、
一人一人の存在そのものが神であり、宇宙のすべてであるという真理に
一日も早く到達することができるよう願っているだけです。


今は昔のように特高警察がいて個人の思想を弾圧することもありませんので、
何を語るのも自由なのですが、
こういった個人の思想の深い、根本的なことを語るのは勇気が要り、
言葉もついつい選びがちになってしまいます。

何事にでも、自分で考え、それを主張するというのは
勇気とエネルギーのいることです。


繰り返しますが、戦後62年経った今、過去の歴史問題で、
国と国との間、また同じ国の中でも主義・主張以前の事実認識の段階で
言い争いを続けている現状は、
あまりにも情けないものです。

戦争を賛美するつもりはありませんが、
地元広島の江田島に海上自衛隊第1術科学校があり、
そこに神風特攻隊員の遺品などが納められた教育参考館があります。

そこでは戦争で命を落とした多くの若者の顔写真、遺品とともに
手書きの遺書が展示されているのですが、
まだ二十歳にもならない若者たちが書いた遺書、手紙はどれも驚くほどの達筆、
素晴らしい文章で、その当時の若者が如何に優れた教養、資質を持っていたのかを
うかがい知ることができます。

その彼ら英霊が命を捧げて守ってきた日本が今どの様な状態なのか、
彼らに向かって胸を張って今の日本の文化を誇ることができるでしょうか。

彼らの尊い命をはじめ、戦争によって生じたあまりにも大きな負の遺産の背負い、
それを糧として新しいものを築いてきたと言えるでしょうか。

もっとも、過去の争いごとを後世の人間が教訓として活かし、
その反省の上に平和という観点でよりすぐれた文化の構築を求めるのは、
無限ループの如く戦争という営みを繰り返してきた人類にとっては
無理な相談なのかもしれません。

けれども今私たち人類が置かれている状況は、
一刻の“待った”も許されない、きわめて切羽詰まった状態です。

過去の歴史を再び繰り返すのではなく、
まったく新しい価値観を早急に作り上げることを急務です。

そのためにも過去の歴史を正しく見つめ、
その上で新しい人類と地球、地球環境が共生し、循環していける
永続的に存在可能な社会規範、価値観を築いていく必要があります。


思想的なことを具体的に書きましたが、
まず私たちに求められているのは、
民族、お互いの立場の違いを超え、正しく物事を見つめる目を持つこと、
お釈迦様の説かれた八正道のひとつ、正見なのだと思います。
これがなければすべてがはじまりません。

もう人類はお互いに争っている余裕はありません。

終戦記念日に過去の歴史を振り返り、
そこで考えたことを基に、終戦記念日を永遠にすべての戦を終わりにするという、
本当の意味での終戦を祈念し行動する日にしなければならない、
そう心に誓った8月15日でした。

2007.8.15 Wednesday


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