トイレ掃除に学ぶ
地域の学校や公共施設のトイレをみんなで掃除することにより、
学校や街をよくしていこうという集まりが全国にあり、
知り合いも多数参加しています。

  日本を美しくする会 掃除に学ぶ会  広島掃除に学ぶ会

私はこれまでそこに参加する機会はなかったのですが、
このたびお誘いがあり、昨日思い切って初めて参加してきました。
午前中は広島駅近くにある二葉中学校、
午後は市内中心部の繁華街の中にある袋町公園が会場です。

朝8時前に中学校の体育館に行き受け付けをすまし、
8時から開会、挨拶や道具の説明、先生方からのお話し、ビデオ放映等がありました。

二葉中学校は、数年前までは広島県内でも最も荒れていた中学校で、
校内のトイレの大便用トイレの扉の半分は壊され、
トイレの中は落書きだらけ、ゴミだらけだったのだそうです。
それが学校のトイレ掃除をひとつの契機としてどんどん変わっていき、
今では学校の中はゴミひとつないきれいな状態で、
トイレ掃除も生徒たちが自主的に行なっています。

「学校で子どもたちにトイレ掃除をさせるのは是か非か」というテーマが
昨年全国放送の番組で取り上げられ、
その中で二葉中学校の取り組みが紹介され、
その番組のビデオを見せていただきました。

  (この二葉中学校でのトイレ掃除の取り組みを紹介した素晴らしいレポートを
   近日中にこのホームページにアップさせてもらいます。お楽しみに!)
     こちらです → トイレ掃除が学校を変え街を変えた 同PDF版


参加者は広島掃除に学ぶ会のメンバー、学校の子どもたち、先生方、
保護者や地域の方々、総勢二百名弱ぐらいおられました。
それぞれ十数名の10ほどのグループに分かれ、
校内にあるひとつひとつすべてのトイレを掃除していきます。

私は初めての参加でしたので、大人だけ11名のグループで、
一階化学室横のトイレを掃除させてもらいました。

まずはグループリーダーの方が掃除の仕方を丁寧に説明してくださいます。
掃除は強制ではないのですが、原則素手、素足で行ないます。
私も家ではいつも素手でトイレ掃除をしていますので、
その点はまったく抵抗はありません。
けれどリーダーがまだ水を流す前の
小便器の水濾(こ)し(便器の小便が流れ落ちる部分の器具)を
素手でサッと取り上げられたのには一瞬ドキッとしました。
私はまだそこまでの域には達していません。


            これは別の学校での掃除風景です。

各人ひとつずつ便器を担当し、まずはスポンジにカネヨンという洗剤を付けて磨いていきます。
二葉中学校は普段から掃除が行き届いていますので、
便器はそんなにひどい汚れはこびりついていませんでした。

私は一番奥の小便器を担当し、
その前にしゃがみ込んでスポンジを持つ手に力を込めて磨いていきます。
掃除は汚れを落とすというよりも、まさに磨き上げるといったイメージです。

床から縦長に伸びた便器の前に座り、
対峙するといった感じで何度も何度も徹底的に磨き上げていくと、
心の中に何か不思議な感覚が芽生えてきました。

真っ白いホーローの便器ですが、
このまま磨き上げ続けると、いつかこの真っ白なホーローが鏡のようになり、
そこに自分の顔が映し出されるのではないか、そんな気持ちになってきます。

磨いているのは便器ではなく鏡である。
そしてそこに映っている自分自身であり、自分自身の心なのだということに気が付きました。

「トイレ掃除は心磨き」という言葉がありますが、
そのことがとてもよく理解できました。

たった一回のトイレ掃除で何が理解できるのか、
と思われる方がおられるかもしれません。
たしかに回数を重ねることによって、より深い真理が分かるということはあるでしょう、
けれども初めて経験した時の新鮮な驚きと感情は、
その時だけの貴重なものです。
回を重ねることによって当たり前のこととなってしまっては、
表面意識にはなかなか上ってくこなくなります。


トイレは「不浄なところ」とされています。
トイレを磨くことによって、自分の心を磨くことができるのであれば、
その磨かれる心の部分とは、きっと心の中の「不浄なところ」であるはずです。

心の中の「不浄なところ」とは、トラウマと表現される心の傷であったり、
抑圧された意識、これまで直視することを避けてきた心の闇であったりするのでしょう。

トイレ掃除によって心が浄化され、学校、街がよくなり、
参加された方たちの心が豊かになっていくのは、
とても自然なことです。

浄化の “浄” は、さんずい偏に争うと書きます。
怒り、恐れ、憎しみ、悲しみ、様々な苦しみから脱するには、
葛藤、苦悩や諍いなどの争いを経て、
それらを水のように洗い流し、清める必要がある、こういう意味だと理解しています。

トイレ掃除は自ら身を低くして体を動かすことによって、
苦悩という争いを経ることなしに心の奥を見つめることができ、
トレイ掃除の最後にホースの水でトイレの汚れや洗剤を洗い流すが如く
心の中の汚れも洗い清め “浄化” してくれるのではないでしょうか。


私がこれまで掃除の会に参加してこなかった理由のひとつに、
「掃除の基本はまず身近なところから。
 自分の家、身の回りの掃除を完璧にすることが先決である」
という思いがありました。

けれども初めて掃除の会に参加し、学校という家の外での掃除を体験させてもらい、
家の掃除と外の掃除とでは意味合いがまったく異なるということに気が付きました。

家のトイレは自分、または家族のものが使い、自分たちが掃除をしなければならない、
目を背けることのできない場所です。
また汚れていたとしても、それは身内がつけた汚れです。

それに対して学校や公共施設のトイレは、
たとえ汚れていても次回は別のトイレを使うなどして避け、目をそらすことができます。
またそこの汚れは誰か分からない他人が残した汚れです。

家の外のトイレを掃除する意味合いは、
本来なら目を背けることのできる汚れに対し、
自らの体を使って掃除し、磨き上げるということにあるのだと思います。

他人が汚した便器を素手で、微に入り細に入り徹底的に磨き上げることにより、
自らの心も普段絶対に意識することのないような奥の奥のところまで
磨き上げられるのでしょう。

また他人が汚した便器を磨くということが利己的な思いを消し、
心の範囲を広げてくれるのではないかと感じます。


午後は1時半に集合し、広島市内中心部の繁華街にある公衆トイレ数ヶ所を
いくつかの班に分かれて掃除しました。
集まったのは大人ばかり50名ほど、
新人の警察官やボランティアをしている若者たちがたくさん参加していました。

私は袋町公園のトイレで、小便器の水濾しをきれいに掃除しました。
片手手のひらにガバッと乗るぐらいの大きな水濾しを、
ヘラやサンドメッシュという網状のヤスリを使ってきれいにしていきます。

水濾しは小便が長時間溜まる部分の器具ですので、
尿石のこびりつき方が半端ではありません。
分厚くこびりついた尿石は、ヘラを使って少しずつこそいでいきます。
中途半端にこびりついた尿石は、ヘラで削ることができず、
ちょっとやそっとで落ちるものではありません。
サンドメッシュにカネヨンを付け、一ヶ所を千回近く磨いてやって落ちるといったしつこさです。

公園トイレの横の芝生の上に座り込んで、
一緒に別の水濾しを掃除している人とおしゃべりをしながら磨いていきました。
少しだけ肌寒かったものの天気は晴れ、
頭の真上には早咲きの桜が咲き、
近くの結婚式場で時折鳴り響く鐘やファンファーレに耳を傾けながらする作業は
とても心地いいものでした。

一時間近く徹底的に一個の水濾しを磨き、98〜99%はきれいになりましたが、
もう一息、残念ながら完璧というところまでには至りませんでした。
水濾しは裏返せば大きなジョッキーのような形になっています。
これを完璧に磨き上げた人の中には、
この水濾しをジョッキーにしてビールを飲んだ人がいるそうです。
頭が下がります。

どんな汚れも徹底的に磨き上げればきれいになる、
道具の使い方には要領がある、
様々なことを学ばせていただきました。
これは今後家の掃除においても活かしていかなければなりません。


トイレ掃除をはじめとする下座行の本質は、
自ら身を低くして無私の心で体を使った奉仕、仕事を行い、
すべての物事に対する感謝の心を養うことにあるのだと思います。

これは「幸せになる」ための行為ではなく、
「今ある幸せに気付く」、そのための行為です。

幸せとは得るものではなく気付くものである、
吾唯足知(われただ足るを知る)


これが下座行の本質であり、
私がインドのホームページの子どもたちから教えてもらったことでもあります。



トイレ掃除をすることで心が豊かになり、周りで様々な現象が起きてくることは事実でしょう、
けれどもそれを「利用」して、
「トイレ掃除をするとお金持ちになれる」などと吹聴するのはいかがなものでしょうか。

いろんなところでこのようなことが言われ、
何冊も本が出て、講演会なども催され盛況のようですが、
このような下卑た考えに染まっていく日本人が多くいることに悲しみを感じます。

「トイレ掃除は素手で行なうと、入るお金の金額にゼロがひとつ増えてくる」
などという話に至っては、まさに開いた口がふさがりません。

下座行は無私の気持ちで取り組み、欲得を考えないところに意義があり、
心を浄化する作用があります。
行いを通して自らの心の変革を求めるのが本来の下座行のあり方です。

同じ行為をしながらも「これをすればお金がもうかるから」、
「ラッキーなことがたくさん起こるから」などと私利私欲を求めて行なうそれに
どれだけの意義があるのでしょう。

まったく意味のない行為だとは言いませんが、
「吾唯足知」とはまったく真逆の欲望を求めて行なう行為では、
その人の心のあり方に変革を起こすことは期待できず、
欲望を満たすようなその「御利益」を得るのは難しいでしょう。

  「宇宙はたらいの水である。
     その水を向こうに押すと、こっちに返ってくる。
       こっちに引くと去っていく」

この「たらいの法則」は宇宙の基本法則のひとつです。


各地でトイレ掃除を行なっている「日本を美しくする会」の活動は、
年を追うごとに広がりを見せています。
掃除の大切さを口にされる方が、私の周りでもとても増えてきました。

不浄とされるところに着目し、その美化に取り組む人たちが増えてきたということは、
これまで効率一辺倒、快適さ利便性のみを求め続け、
その結果、社会全体が大きな行き詰まりを感じている現代社会に対する
大いなるアンチテーゼではないかと思われます。

先日アカデミー賞を受賞した「おくりびと」が大きな話題となり、
トイレ掃除と同じくこれまで不浄とされてきた、
遺体を扱う仕事、それに携わる人たちの人たちの尊さが見直されるようになったのも
根底はまったく同じ現象の現れです。


吾唯足知、幸せとは得るものではなく気付くものである、
このことをより深く心に刻むためにも、
これから真摯な姿勢でトイレ掃除に取り組んでいきたいと考えています。

2009.03.15 Sunday


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