ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



型を破る<2>

この時空にあるすべてのものは生々流転していて、
永遠に同じ形を保つのは何ひとつありません。
ですから型はいつか必ず壊れゆくのが定めです。

その壊れゆく型を絶対と信じ、
いつまでもそれを守り続けるところに歪みが生じます。

悪いもの、価値がないと判断されるものは型とはなりません。
これはいいものである、価値がある素晴しいものだと判断されるからこそ、
それを突き詰め、ひとつの型として昇華します。

その型を守り、そこに深く入り込むことによって多くのことを学ぶことができます。
その型の典型が、厳格な教義を持つ宗教であり、
武道、茶道、華道、あるいは私が実践しているトイレ掃除における掃除道等
道と称されるものです。

この世は相対の世界であり、
絶対的なものなどないのですから、
この型の世界をいいか悪いのか、絶対的な評価を下すことはできません。

型から学べることも多々あれば、
それによって囚わや迷いを生じることもある。
人によって、時と場合によって、その型との関わり方によって、
型というものの価値は如何様にも変化するのです。
これは型に限ることではないのですが ・・・ 。


『表大なれば裏大なり』、
その型が完成された素晴しいものであればあるほど、
人はその型を尊重し、その型の外からはみ出ることを嫌い、
時が流れても、いつまでも過去の型を頑なに守り通そうとします。

私はこれまで宗教や、素晴しい人格者が切り拓いたスピリチュアルな世界で、
そんな例を数限りなく見てきました。

本当にその型、そしてその型を作った創設者を尊ぶのであれば、
その型の持つ危険性を十分に認識し、
時とともにその型を変革していくべきです。

そしてそれとともに、自分自身もその型から学んだものを活かし、
型から脱し、自らまったく新しいものを築いていくべきです。

それがその型、その型を作った創始者に対する最も敬意ある態度です。

『守破離』、
はじめは型を守り、そしてそれを破り、
最終的にはそこから離れていく、
これが循環を根本原理とするこの時空の真理です。


どんなものも絶対なものはありません。
ですから相対的視点で、
ひとつのもののいい面悪い面、
この両面を見ていかなければなりません。

一方的、絶対的な信服というのは、
そのものを正しく評価していないことであり、
それを活かすことができないことに通じます。

ある人やものを素晴しいと感じるならば、
その人やものの欠点をもしっかり見てあげて、
その上で関わるのが、
自分にとっても相手にとっても最も実りある関係を築くための最大のポイントです。

古代ユダヤのラビの知恵で、
『全員一致で決まったものは不採用』
という教えがあります。

一面的、絶対的な評価は大きな危険を伴うのです。


その自分の持つ型を破るのは、
並大抵のことではありません。

先の金沢翔子さんのお母様泰子さんが語る、
「私は日本で一番幸せな母親です」という言葉、
これを語ることができるまで、
いったいどれぐらいの涙を流されたことでしょう。

その泰子さんが自分の経験を活かし、
多くの人に少しでもその流す涙を少なくして、
自分と同じ境地に至って欲しいと願う気持ちはよく分かります。

けれど本当に自分の型を破り、新たなる境地に至ろうとするのなら、
それ相応の覚悟と行動は求められるはずです。
それなくしてなんとかと思うことは、それ自体が、
型から抜け出すのを回避することだからです。


スピリチュアルムーブメント華やかしき昨今ですが、
その伝わってくる情報を見てみると、
何かのグッズを購入して幸運を手に入れる、
セミナーに参加して特別な手法を身に付ける、
能力のある人から不思議なパワーを授けてもらう、
こういったことが主なような気がします。

これは新たな時代に入るにあたり、
これまでの型を破ろうとする行為ではなく、
その逆に、これまで培ってきた旧来の価値観や暮らしを守るため、
表面の部分だけ新たな手法に頼って形を変えようとしているに
過ぎないのではないかと思います。

本当に今求められている『型を破る』とはどういうことなのか、
そのことを一人一人真剣に感じ取っていただきたいと願います。


先週、スーハゆうじんさんからダライラマが特別に録音を許可されたという
『詠唱・マントラ』というCDをいただきました。
それはCD−Rにコピーされたもので、何の解説もなく、
どういう状況で録音されたものかまったく分からないのですが、
その流れてくるお経の声、周りの響きを聞いていると、
その声を発しているお坊さんたちが、
いかに真剣に日々生きているのかということが手に取るように分かります。

腹の底から響く低い声は、ただ聞いているだけで心地よく、
真摯に日々神仏と対話している者のみが発することのできる
気合いに充ちています。

たぶんラマ教の僧侶の方たちなのでしょう、
今は中国政府の圧政に対する反旗を翻す意味で、
焼身自殺をする方が絶えないとニュースで聞きましたが、
この人たちにとってラマ教という “型” は、
信仰の手段に過ぎないのだと思います。

最も大切なことは、その手段を用いて自らの内面を深く探ることであり、
神仏と対話をすることにあるのでしょう。
そのことをこのCDから感じ取ります。


あまり悪い例で具体的名称を書くのは気が引けますが、
きちんと書いた方が分かりやすいのであえて書かせていただきます。

昨年の秋、ニュージーランドから来た知り合いと宮島に行き、
数年ぶりに厳島神社を参拝しました。

厳島神社は有名な観光地で、
風光明媚だということでは価値がありますが、
神の社としての峻厳な気というものは、
神社のどこを歩いてもまったく感じることはできませんでした。

厳島神社は毎日何千人という観光客が訪れます。
特に今年は大河ドラマ平清盛の影響で、
さらに参拝客は増えることでしょう。

その観光客たちは入り口で列をなし、
一人300円の拝観料を払って中に入ります。
それらは年間どれぐらいの額になるのでしょうか。

何もしなくても莫大な金額が勝手に入ってくる状態にありながら、
自らを深く見つめ、神仏と対話をするというのはきわめて困難だと思われます。

絶対に苦労が必要だとは言いませんが、
人間が心から自分の根底を見つめたいと願い、
目に見えない存在に心傾けるには、
ほとんどの場合、何らかの厳しい状況が不可欠だと思われます。


今日は夕方、突然近所の福本元議員のお姉様からお電話をいただき、
雅楽の笛を練習されるところにおじゃましてきました。
その笛の先生が天理教の方で、
私と話が合うと感じられたのだそうです。

そう言えば、私の天理教の先生も福本という姓なのです。
これも何かのご縁でしょうか。

その笛の先生が話の中で、こんなことを言っておられました。

やはり雅楽をされている方が厳島神社に行かれ、
神社の方が奉納演奏するのを聞かれたそうですが、
その演奏があまりにも稚拙で、
「観光客の方たちにも聞かせられるのだから、
 もっときちんと雅楽の練習をされた方がいいのでは・・・」
と言ったところ、神主さんが、
「私たちは観光客のために演奏しているのではありません。
 神前に捧げるために演奏しているのです」
と答えられたそうです。

観光客のためでなく神様のために演奏するのなら、
なおさらその腕前を修練しなければならないのではないでしょうか。

その話と、私が昨年厳島神社を訪ねた時の印象は見事に合致します。


型を破る、これが今の時代、私たちに求められているというのは、
多くの人が感じることでしょう。

けれどこの型を破るということは、方法やテクニックの問題ではありません。
その型は生き様に直接通じることであり、
これを破る、改革していくというのは容易なことではなく、
大きな決断と行動が求められます。
それはぬるま湯に浸かったままできるものではありません。


私がこのホームページで実名を明かし、恥ずかしいことを公開し、
また世間の一般的意見に反することや、
今日このページのように具体的名称をあげて批判的なことを書くのは、
自らの書いたものに責任を持たざる得ないようにするためであり、
自己改革をしていくための大切な手段なのです。

真剣な生き様の中からしか実りあるものは得られません。
もう目先の方法やテクニックで新たな境地を開ける時代は終わりました。

けれどこの時空は厳密な因果律によって支配されています。
志を持ち、確実に一歩ずつ歩んで行けば、
実りは必ず得られます。

すべてはひとつ、いかなるものも根底ですべてつながっています。

ともに、歩みましょう。

2012.2.23 Thurseday  
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