ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



心のブロック

今日掲示板に
「ヨガナンダさんの心のブロックって一体何なのでしょう?」
というメッセージをいただき、そのことについて少し考えてみました。


心のブロックというのは、
私がホームページの中に書いている心の壁のことでしょう。
また世間ではメンタルブロックというしゃれた言い方もしています。

私が聖人君子のような人間で、
そんな心のブロックがあることなど想像できないと思われて、
そんなことを書かれたのかなとも感じたのですが、
どうなんでしょう ・・・ 。

私は心の弱い部分も心のブロックもたくさんあります。
人並み以上です。

いつも書いているように、私はきわめて怠惰な人間です。
すべての面に対してではありませんが、
そういう面が強くあるということです。

今は部屋をきちんと片付けられるようになりましたが、
昔は惨憺たる状態でした。
けれどもその頃でも、人からはそんなふうには見られませんでした。
いつもスーツをピシッと着て、折り目正しくしていましたから。

自分のことはなかなかできなくても、
世話好きで、人のことはよくするので、
人には私の自分自身への取り組みというものが見えないのでしょう。

自分に対して厳しい目を持つ、
しなければならないことをキチンとする、
それがまったくできていなかった私は、
その心の状態が現在も色濃く残っていて、
それが心のブロックを作る最大の要因となっています。

やらなければならないこと、やればいいと思っていることでも、
体が拒否してできないという経験が過去に数え切れないほどありました。

それによって人生に様々な障害が起こるのですが、
人の生き方とは実に多様なもので、
その障害を克服しないまでも、
それを回避し、また新たな道を見つけ出すことも可能です。

またその障害があるがゆえ、
新たなものが発見できることもあります。

「心のブロック」という表現は、
100%ネガティブな印象を受けますが、
別の見方をすれば、それはその人の個性とも言えるかもしれません。


昨今は登校拒否をする子どもさんがたくさんいますが、
普通(!)の子どもさんが学校にキチンと通っているのに、
その子が学校に通えないということは、
その子のどこかに問題があり、
その子の「心のブロック」が、
ごく普通の子どもさんができる当たり前(!)の習慣を受け入れるのを
拒否しているのだと考えることができます。
これは一般的(!)な考え方だと思います。

けれどもまったく別の見方をすれば、
今の学校教育の現場は、お世辞にも理想的なものとは言えません。
それをストレートに感じ、自分の心がそれに適応できないことを知り、
素直に「自分は学校には不適応だ」と表現するのは、
本当の意味での素直で適応能力(不適応能力?)のある姿かもしれません。

今の社会では自分を押し殺し、
無理矢理にでも世間に適応することを素直だと受け止める風潮がありますが、
それこそが自分の心の奥からのメッセージを壁でふさいでしまう
心のブロックの持ち主であると言えます。


そう考えてみると、心のブロックとはある心の状態を指す言葉ではなく、
その状態を評価する、見方のひとつに過ぎないということが分かります。

ブロックがあるからそれに道をふさがれたり、
それにぶち当たって怪我をすることもあります。
そうなればブロックは忌み嫌う存在です。

けれどもブロックがあることによって、
新たな迂回路を発見することもあり、
嫌なものが入ってくるのを防いでくれることもあります。

そしてもしかしたら、そのブロックを踏み台にして、
天高くジャンプてきるかもしれないじゃないですか。

ひとつのものには様々な見方や評価があり、
それに絶対的評価などはできません。
最も大切なのは、そのものの本質を知り、それをどう活かしていくかということ、
これしかないのです。


今こうやってキーボードで文字を打っているのは、
あらかじめ頭の中で構想を練ったことではありません。
ただ思いつくことを思いつくままに打っています。

先日「更新」で、毎日更新し続けるのをストップしますと書きました。
あれを宣言したお陰で、
心のブロックが外れたというのでしょうか、心が解放されたというのでしょうか、
「ホームページにはきちんとしたいい文章を書かなければならない」
という意識が薄くなり、気楽に文章が書けるようになりました。

以前書いたことと重複してはいけない、
また以前書いたことと矛盾してはいけないという気持ちがあったのですが、
何かの臨界点を突破でもしたかのように、
そんな気持ちが吹き飛びました。


このページでは、心のブロックは必ずしも悪いものではないと書きましたが、
他のページでは、もしかしたら違ったことを書いているかもしれません。
けどそれは致し方ないですね。
違いがあっても、それはあくまでも見方の違いということ、
自分の外に真理はなく、
真理はどんなに厳密に言葉を定義しても、
言葉では表現することはできないのですから。


私には心のブロックがたくさんあると書きましたが、
普通の人が持つブロックが、私にはないという面もあります。

スピリチュアルなメッセージをネットで発表される方の多くは、
実名や顔写真を明かさない匿名という形でしておられますが、
私にはその気持ちがまったく理解できません。

それはその人たちの心のブロックなのでしょうか、
超オープンな性格の私にとっては、
すべてを明かすからこそ、
他の人たちとストレートに言葉や心の交流ができるという感覚があります。

また私には、自分の弱い部分、
醜い部分を隠したいという気持ちがほとんどありません。
人によって態度を変えないというのが私のモットーですし、
マイナスをさらけ出すことによって、
ここに書く言葉にも力がこもるのではないかと考えています。

「自分の弱い面をさらけ出せる人間ほど強い」と言われますが、
そういう面では、私は強い一面を持っているのかもしれません。


こういった私の性質は、「心のブロックから解放されている」
という見方ができるかもしれませんが、
また別の見方をすれば、露出狂、恥知らず、傍若無人、デリカシーがない、
そんな評価もまたあり得るでしょう。

やはり心のブロックというものは、ひとつの相対的な評価に過ぎません。
あまりそれに深い意味を持たせすぎないことです。

室町時代の猿楽師 世阿弥は、
『秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず』
という日本文化を象徴する素晴らしい言葉を残しています。
これは私の生き方からは縁遠い世界です。
やはり私は前世インド人なのでしょうか ・・・ 。


ある傾向を持った心の働きを、心のブロックとするか、個性とするか、
それはその人自身が決めることです。

やはり結論は同じです。
まずは自分の心の働きがどのようなものであるのか、
それをしっかりと見つめ、それを知ることです。
そしてそれをうまくコントロールすること。

そのために心磨き、感情の解放、
心を変えるためにも行動という形を変えること、ですね。


公衆トイレ掃除の会では、
毎月案内文を配る時に、その裏面に誰かの感想文を載せることにしています。
今日は来月お配りし、このホームページにもその時にアップする感想文を
ある方からメールで送ってもらったのですが、
とてもいいことが書いてあり、私も心を新たにしました。

私はパチンコ、麻雀、ギャンブルといったものには一切興味がありません。
その理由のひとつは、そういった遊びよりも、
今の時代、心のあり方を見つめ、そこから起こる不思議世界と戯れている方が、
はるかに意外性があり、面白いからです。

その最高に楽しい心の旅を歩む材料として、
心のブロックは大いに役立ちます。

心のブロックは打ち破らなければならない、消さなければならない、
そう思っているならば、それは自分を縛る心の囚われであり、
それこそが心のブロックかもしれません。


私が関わっているカンボジアのボランティアでは、
首都プノンペンに一昨年の秋、
「ひろしまハウス」という立派なレンガ(ブロック)積みの建物が完成しました。

お祭りの時にみんなでカレーショップを開いたり、寄付を募ったり、
また自らカンボジアにおもむいたりし、
ひとつずつのレンガを積み上げ、
ひろしまハウスという大きな建物が出来上がりました。

「心のレンガ積み」それが私たちの合い言葉でした。
積み上がったレンガのお陰で、ハウスの中では雨風をしのぐことができます。


再度同じ言葉を繰り返しましょう。
心のブロックとは、ひとつの評価に過ぎません。
それを活かすかどうか、それは自分自身が決めていくことです。


こんなことを書いていると、昔大好きだった曲を思い出しました。
エルトン・ジョンの Goodbye Yellow Brick Road 、
黄昏のレンガ路です。

夕日に輝く Brick はきれいですね♪



2011.5.21 Saturday  
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