ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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元はじまり<4>

昨年知り合いからキリスト教系の本をいただきました。
その中で著者であるクリスチャンの日本人男性が、
「ほとんどの日本人は自分の宗教というものを持たず、
 それについて何も感じていないようであるが、
 これはとても恥ずべきことである」
というなことを述べておられました。

この意見について、私はまったく賛成しかねます。
キリスト教のような西洋的判断では、
自分の外部にある特定の神名を持った存在を崇めることが信仰で、
自然に対して畏敬の念を示すことであり、
そうでない、特定の信仰を持たない人間は無神論者であり、
極端に言うならば、
自然や人をものと同列にしか見ない刹那的人間ということになるのでしょう。

けれどもこれはまったく見当違いな意見です。
日本人は伝統的文化の中で、
幼い頃から八百万の神という形で身の回りのすべての自然に
超越的な神性を見出し、
自分にも、また周りの人たちにもその心の中に仏性を観るという
環境で育ってきました。

ご飯を食べる時には「いただきます」と言って手を合わせ、
食べ終わった時には「ご馳走様」と言って、
命の恵みを受け継いだことに感謝をします。

針、はさみ、人形、こういったものに対して供養をし、
その慰霊碑や塚を作るという、
ものにこもった霊性や魂を認め、崇めるという素晴らしい文化を
私たち日本人は心の中に古くから持っていたのです。

これは特定の宗教というものではない、
日本人の根底に流れる精神文化です。


けれども私たち日本人のこの本来持っていた素晴らしい精神文化は、
時代の流れとともに急速に衰退していきました。
たぶん第二次世界大戦終戦後、
アメリカ的民主主義、合理主義が入ってきたことが
大きな契機ではないかと考えられます。

アメリカは日本人の民族性を衰退させ、
経済は豊かでも根本の思想がないアメリカの属国的な国に
日本を仕立て上げるため、
3S政策 ・・・ Screen(スクリーン)、Sport(スポーツ)、Sex(セックス)
という愚民政策をとったということが言われていますが、
これは真実ではないかと考えています。


伝統文化を捨て、民族としての根本を忘れ去ってしまった私たち日本人の姿は、
心のあり方という目に見えないものだけではなく、
姿勢や動作といった目に見える世界にも如実に反映されています。

「経済は豊かでも根本の思想がない」、
この生き方の問題点は、
戦後日本人の食卓がカロリーやタンパク質といった栄養が豊富になり、
肉食化が進むことによって体格は大きく立派になっても、
体を支える力が弱く、姿勢が悪く、持久力がないという
身体的問題と完全に一致します。

心と体はひとつである、
心のあり方は体に表れ、
体を鍛えることで心の状態もまた変化してくるということを
これまでこのホームページで何度も書いてきていますが、
今のこの時代の大転換期において、
私たち日本人は、私たちが本来持っていた日本人の伝統文化を取り戻すためにも、
心の中の生きる姿勢、体を支える正しい姿勢、
これらを今一度見直すことが強く求められています。

亡骸を背負う少年 
(昭和20年8月29日 長崎の原爆被災地にて)

終戦後、小さな弟の亡骸を背負い、一人火葬場にやって来て、
口を真一文字につぐみ、背筋を伸ばし、姿勢を正しているこの少年の写真は、
どんな書物よりも深く大切なことを私たちの心に訴えかけてくれます。
私はこの写真をケイタイの待ち受け画像にしています。

この少年はこの後どの様な人生を歩んだのでしょうか。
生きる姿はその人の体の姿勢に表れます。
今の日本人の無表情で気力のまったく感じられない姿勢というのを見ていると、
刹那的に我欲を満たすことに重点を置くスピリチュアリズムが
蔓延する現状も致し方ないものだと思えてきます。


一神教なのか多神教なのか、
宗教なのかスピリチュアリズムなのか、
そういったことよりももっと大切なのはその根本の「生きる姿勢」です。

これまでの時代は、人にこのしっかりとした生きる姿勢を培うために、
排他的で絶対的で、強い求心力を持つ宗教が
大きな力と役割を持っていたことは事実です。

私の身近な人たちを見回しても、
命がけでひとつのものを貫き通そうとしている人は、
そのほとんどが宗教家です。

その強さの源は、ある意味自分の命よりも尊い絶対的な存在を自分の外に見出し、
それに向かって疑うことなく進んでいけるということにあるのでしょう。

強さということは別にして、身体的に理想的な姿勢というものを考えたならば、
まずは肚(はら)をしっかりと据えるということ、
これは「地に足をつける」というのと同じです。
そしてその肚の上に伸びる体の中心軸である背骨を
真っ直ぐ真上に保つということです。

肚をしっかり据えるということは、
自分の生き方をしっかり見定めるということです。
自分は何のために生きているのか、自分にとっての幸せとは何なのか、
そういったことを常に考え、意識し、哲学を持った生き方をするということです。

その上に真っ直ぐに背筋を伸ばすということは、
その哲学に沿った生き方を日々実践するということでしょう。

姿勢がだらけ、背骨が丸まってしまい、お腹に力が入らなければ、
頭部で受けた視覚、嗅覚、聴覚、味覚、四感の刺激を
脳だけで処理してしまい、
ただ刹那的に、その場その時だけ心地よい景色、香り、味、音、・・・
そういったものばかり求めてしまうようになるのです。


私は特定の神名を拝することはできません。
自分の外に絶対的な存在があるとは信じていません。
今の私の考えは、天理教の教理からは大きくかけ離れたものになっていますが、
この生きる上での最も大切な「生きる姿勢」というものを、
三十年前、天理教という宗教の場で学ばせてもらうことができました。

2011.2.4 Friday  
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