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言葉の重み<3>

いい包丁は美味しい料理を作るためには欠かせません。
刃先の鋭いよく切れる包丁は、
素材を痛めることなくきれいに切りそろえることができ、
料理の味や見た目をアップさせます。

けれどもよく切れる包丁は、
使い方によっては人を傷付けたり殺めたりすることも容易にできてしまいます。

どんな包丁でもそれ自体には価値はありません。
それをどのように使うのかというところから包丁の価値は生まれてきます。

言葉も包丁と同じです。
意思伝達の手段である言葉は、
使い方によっては人を喜ばせ、励ますことができるのと同時に、
人の心を傷付け、また昨今ニュースによくなっているいじめ問題のように
人を死に至らしめることもあります。

言葉も包丁と同じくあくまでも道具です。
これをいかに使うのか、いかに活かしていくのか、
そこに価値が生まれてくるのです。


2006年、秋田県で幼い我が娘と隣の男の子を殺害するという
痛ましい事件がありました。

犯人である畠山鈴香は逮捕直前まで悲劇の母親を演じ続け、
その犯行や彼女の異常な心理状態が世間の話題となり、
事件の記憶は今も私たちの心に深く残っています。

つい先日、彼女の卒業文集についてのページをネットで見かけ、
彼女の同級生たちの彼女に対するあまりにも心ないコメントに
深い衝撃を受けました。


畠山静香、彼女は秋田県能代市二ツ井町で、
ダンプの運転手の父と元・ホステスの母の長女として生まれました。
風聞ですので定かなことは分かりませんが、
彼女の母は育児放棄をし、彼女をまともに風呂に入れず、
ご飯もろくに作ってもらえなかったとのことです。

そこで性格的な歪みが生じたのか、
あるいはいじめられっ子としてのターゲットとなったのか、
彼女の通っていた秋田県立二ツ井高校での彼女は、
周りの同級生たちからずいぶん嫌わた存在だったようです。


☆畠山鈴香 卒業文集のコメント☆

畠山鈴香 卒業文集のコメント

1年間、長い人は3年間どうもでした。
すぐには仕事をやめてこないけれど二ツ井に帰ってきた時は遊んでやってください!
帰ってきたらまっすぐビューホテルの???の???のでよろしく!



☆それに対する同級生の寄せ書き☆

それに対する同級生の寄せ書き

会ったら殺す!
顔をださないよーに!
もうこの秋田には帰ってくるなョ
秋田から永久追放
秋田の土はニ度とふむんじゃねぇぞ
戦争に早く行け
いつもの声で男ひっかけんなよ
山奥で一生過ごすんだ!
今までいじめられた分、強くなったべ
やっと離れられる


☆色々な意味で有名になりそうな人☆

畠山鈴香・・・自殺・詐欺・強盗・全国指名手配・変人大賞・女優・殺人・野生化
すぐに仕事辞めてしまいそうな人1位
墓場入りが早そうな人1位



私はこれを読んで言葉を失ってしまいました。
なんと心ない言葉でしょうか、
これが一生の思い出として残る卒業文集に書く言葉でしょうか。

そしてこんな同級生たちのコメントをそのままの状態にして
卒業文集を作ってしまう教師とは一体どんな人物なのでしょうか。

怒り、悲しみ、情けなさ、・・・いろんな感情が一気に胸の奥からわき上がってきます。

子どもとは残酷なものです。
私も彼女の同級生の立場なら、
きっと調子に乗って彼女に対し皆と同じひどいコメントを書いていたと思います。
私に同級生たちを責める資格はありません。

けれども教師は許されません。
  (許されないという言葉は、本来よくないのですが ・・・ )
子どもの社会の中で、一人だけいじめやのけ者のターゲットとなっている子がいたら、
他の子どもがそれをかばい良心を貫くというのは、
心情的にも物理的にも難しいものです。

そんな時、いじめられている子どもにとって教師は唯一の味方です。
勉強ができ可愛い子どもに目や愛情をかけることは誰にでもできます。
そうではなく、周りから疎んじられる子どもにこそ
教育者としての意識を傾けるべきです。

教師は聖職者であるとまでは言いませんが、
教師は教育者であり、子どもたちの模範であり、プロの指導者である限り、
すべての子どもが楽しい学校生活を送れるよう常に意識することは当然の義務です。
こんな卒業文集を子どもたちに書かすなど、まったくもって言語道断です。

1986年に「葬式ごっこ事件」がありました。
東京の学校に通う中学2年生の男の子が首つり自殺をし、
その後彼をいじめていたグループが行った「葬式ごっこ」に
担任教師ら四人が寄せ書きをしていたことが明らかになりました。
  <中野富士見中学いじめ自殺事件 - Wikipedia>

畠山鈴香が高校を卒業したのはこの事件の5年後ぐらいだと思われます。
彼女の担任教師はこの「葬式ごっこ事件」のことを知っていたのでしょうか。
とにかく教訓はまったく活かされなかったということですね。
情けない限りです。


彼女に対して書かれたこの卒業文集のメッセージ、
同級生たちの態度、教師の対応、
そういったものは彼女の生き方やものの考え方に
何らかの影響を与えていたものと思われます。

だからと言って、そういうことがなければ、
彼女が我が子を含む二人の幼児を殺すという大きな犯罪を
犯すことがなかったかどうかは分かりません。

けれどもここで罪ということについて考えてしまいます。
彼女の犯したことは間違いなく大きな罪です。
しかしそれと同時に、彼女をそのような行為に至らしめる、
遠い意味での間接的要因を作った彼女の周りの人間や環境にも、
同じく罪があると言えるのではないでしょうか。

世の中には逆境の中たくましく生きている人たちもたくさんいます。
また逆境に屈し、歪んだ目で世を見つめるようになってしまった人たちも
少なくありません。

すべてを周りの人間や環境のせいだと言ってしまうのには無理があるのですが、
私たちは言葉をはじめ、生き方すべてが周りに何らかの影響を与え、
また自分も影響を受けているということをもっと知るべきです。


このスピリチュアル夜話のコーナーで、
命の重さということをテーマに、
何回かに分けて命や死刑ということについて考えてみました。

最近は少年法でも極刑判決が下るようになり、
その際には必ず「更正の余地がない」という言葉が含まれるのですが、
もし本当に更正の余地がないとしても、
その被告にそうなってしまった外部的要因があるとしたならば、
本来その罪の一部はその外部のものがかぶるべきです。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。
私が二十年ほど前、人生のどん底で常に死を意識していた時、
どんな人でも何かのキッカケがあれば殺人ですら犯す可能性がある、
ということを我が身で感じました。

「盗人にも五分の理」、
誰もが何がしかの罪を持ち、罪人を一方的に責めることはできません。


私たちが人に影響を与え、また与えられるものは、
目に見えるものは大きく分けて行動と言葉、このふたつです。
そしてその対極に、目に見えないものとして心があります。

行動も言葉も、そして心も、どれもみなものすごく大きな力を持っています。
その力の大きさと使い方を知り、それを活かす、
そのことが肉体を持ってこの世に生まれてきた意味と言えるかもしれません。


私たちは普段の何気ない言葉づかいで、
人の心を大きく傷付け、罪を犯しているかもしれません。

畠山鈴香の卒業文集を見て彼女の同級生たちや教師に怒りを感じると同時に、
我が身を振り返り、自らの罪を知り、
その罪を重ねないように心がけることを教訓としたいと思います。

キリストの姦淫の女

イエスはオリブ山に行かれた。      
朝早くまた宮に入られると、人々が皆みもとに集って来たので、
イエスはすわって彼らに教えておられた。
すると、律法学者やパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた
女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った。

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーゼは律法の中で、
こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」

彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いていられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」

そしてまた身をかがめて、地面に物を書き続けられた。
これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、
ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起こして女に言われた、

「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」
女は言った。
「主よ、だれもございません」
イエスは言われた。
「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい」

                               <ヨハネ福音書 第八章>


 

2010.12.8 Wednesday  
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