音から学ぶ本質論<3>
現代オーディオの主たる音源として活躍しているCD。
CDが登場したのは今から22年前、82年の10月1日、
全国一斉にプレーヤーとディスクが発売になりました。

発売当初、各社から出たCDプレーヤーの中で最も安かったのが
ソニーとローディー2社の製品、定価168,000円。

ディスクも3,800円と3,500円の2種類、今では考えられないほどの高額商品です。
CD、デジタルオーディオが登場した当時、CDはまさに「夢のオーディオ機器」でした。

雑音、ひずみがほとんどなく、低音から高音まで理論通りに再生でき、
置き場所によって音質が左右されず、おまけにディスクが磨耗しない。
理想の条件をすべて兼ね備えているように考えられていました。

しかし実際ふたを開けてみると、たしかにCDはメリハリの効いた
パンチのある音を出しますが、
なにかギスギスした潤いの欠けた深みのない音で、
聴いていて心休まるものではありませんでした。

音楽情報はアナログレコードの方がつまっている、いい音楽を聴くならばLPレコード、
これが高級オーディオマニアの定説となってしまいました。

物理特性抜群のデジタルオーディオの登場によって、
オーディオの真価は、数字に表れないところにある
ということを多くの人が知ることとなりました。

またデジタルオーディオは、機械的に0,1というデジタル信号を扱うのだから
機器による音質差は生じないだろうと予測する声が多くありました。

しかしこれも実際に音を聴いてみると、アナログオーディオと同様、
機器間に大きな音質の違いが現れてきています。

なぜ音質の違いが生じるのでしょうか。

CDプレーヤーは大きくふたつの部分に分かれます。
ひとつはディスクに記録されている0,1のデジタル信号を読み取るトランスポート、
もうひとつは、そこから送られてくるデジタル信号を
アナログ信号に変換するD/Aコンバーターです。

D/Aコンバーターで音質の違いが表れることは理解できますが、
実際には、ただデジタル信号を読み取るだけのトランスポートによっても
大きな差が生じてきます。

高級機ではこのふたつの部分が別々の筐体に納められています。

このふたつはデジタルケーブルというもので結ばれていますが、
これ一本でも音は様々な変化をします。



011011000・・・、こんな信号を送るだけのケーブル一本に
「音が柔らかい」、「低音に力がある」、「解像度が高い」、「クラッシック向きである」、・・・
ありとあらゆる評価が下され、一本数百円から数十万円のものまで、
大手のものだけでも数十種類のケーブルが販売されています。

なぜこんなことが起こるのでしょうか。

コンピューターのプログラムは、誰が作っても結果的に同じものであるならば、
品質に差はありません。

そのプログラムをどんなメディア(フロッピー、CD−R等)に記録しようとも、
記録時にデータの欠落がない限りプログラム自体の価値は変わりません。

しかし音のデジタル情報は、記録媒体、その扱い方によって最終品質に
著しい差が生じてきます。

これから考えられるのは、パソコンのプログラムの様な
最初からデジタルデータとしてあるものと、
音や画像のようなアナログ(連続的に変化するもの)データを
擬似的にデジタル(不連続に変化するもの)データに変換したものとでは
何らかの差があるのではないかということです。

デジタルオーディオの信号は、形としては0と1の集合体ですが、
その奥に、元のアナログデータの持っていた「何らかの情報」が含まれているものと
考えています。

これも現代物理学では測定不可能ですが、きっとこの「何らかの情報」とは、
前項の量子力学の世界で測定結果を左右する
人間の想念、思いの力と類似したものであろうと感じています。

あるヨギの自叙伝
あるヨギの自叙伝

パラマハンサ・ヨガナンダ著「あるヨギの自叙伝」の中に、
このようなことが書かれています。。

   聖書の中のマタイによる福音書にある
     「人はパンのみにて生きるにあらず、
      神の口からいずるひとつひとつの言葉によって 生きるのである」
   という言葉は、人は食物(パン)という実体だけではなく、
   それに付随する宇宙エネルギー(コトバ、オーム)によって
   維持されている、ということを意味する。


我々が実態、全体と考えるもの以外に
何らかの目に見えない情報がすべてのものに付随している、
このことを音は如実に教えてくれているようです。



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