我が魂の遍歴と新しい時代の理
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自然

すべてのものを溶かし込み、融合していく水の時代、固有名詞を持った神名を拝し、自分たちの宗教のみを絶対と信じ、幾多の殺し合いを続けてきた人類の歴史には終止符を打たなければなりません。
これからはすべての宗教がその垣根を取り払い、人類全体がひとつの共通した価値観を持つような方向に進んでいくでしょう。


冒頭でご紹介した超能力神主の菅原先生とそのお弟子さん、そして私の三人で、奈良県の南にある霊験あらたかな神社にお参りに行ったことがあります。
その途中ある神社に立ち寄って、祝詞を上げる声の聞こえる社を眺めていました。
すると菅原先生が、
「あ~あ~、今祝詞を上げても神様そこにいないのにな~」
とつぶやかれました。

驚いた私がその理由を尋ねると、
「だって今、神様が外に向って歩いて行っちゃったよ」
と何食わぬ顔で答えられました。

菅原先生とそのお弟子さんには、神様の姿が視覚的に見えるようです。
そしてそのお姿は、白装束に身をくるんだ古事記の世界の神々のようなものらしいのです。

本当にそんなことがあるのでしょうか。
失礼ながら、その時私はとっさにこんな質問をしてしました。
「本当にそんな神様がいるんですか?
もしかして、私たち人間の想念が勝手に創り出しているだけじゃないんですか?」
今考えても本当に失礼な質問だったと思うのですが、それに対して菅原先生は、まったく動じることなく、ただじっと前を見つめたまま、
「う~ん、そうかもしんないね」
と軽く答えてくださいました。

なんというナイスなお答えなんでしょうか。
それ以来、私は菅原先生のことがますます好きになりました。


世界中あまたある宗教で、様々な奇跡や霊的現象が起こっています。
宗教というものは、そもそも開祖の超常的霊能力によって生まれたものがほとんどで、その霊能力の高さが、宗教の持つ求心力のひとつとなっています。

私たち人間は、超常的なことを目の当たりにすると、ついそれがあたかも絶対的なものであるかのように感じてしまいます。
けれどもその超常的現象から生まれた世界中の宗教で説かれている「神の言葉」は、当然ながらすべてが一致している訳ではなく、多くの矛盾点を抱え、その矛盾した対立点が宗教間の争いの元となっています。

例え人智を越えた「神の言葉」であったとしても、それを絶対的、普遍的なものと信じ込んでしまうのはとても危険なことです。
その言葉や現象に心惹かれるものがあったとしても、常に自分というものをしっかりと持ち、自らの判断力でそれらと対応していかなければ、カルト的(狂信的)信仰になってしまう可能性があります。

全人類が共通して持てる価値観としての宗教は、私たちみんなが共有できる「自然」というものをベースとして持つべきです。
ここをはずし、自らが信じる固有名詞を持つ神のみを信じるということは、他との融和を拒否した排他的姿勢に他なりません。


これまでの宗教も自然というものを無視して存在していた訳ではありません。
宗教と自然はこれまでも、そしてこれからも深い関わりを持ち続けています。
ただこれまでの宗教は、人類の精神が発達途上であったため、自然の持つある一面だけを捉え、それがあたかも普遍性を持った真理の全体像であるかのように説く必要がありました。

砂漠で生まれたキリスト教は、その厳しい自然環境の中、理想の世界というものを地上とは別の天上界に求めました。
また牧畜を生活の糧としている民族で生まれたため、肉食は禁忌とはなっていません。
肥沃な大地で生まれた仏教は、恵まれた環境の元で、自らの中に仏性を見いだしました。
農耕民族の宗教として生まれた仏教は、家畜は農耕をするための大切な道具であり、その動物を食べることは基本的に戒律で禁じられています。

稲作、牧畜をする民は、植物、動物といった自然を支配するという考えを持ち、その人間もまた絶対的な支配者としての一神教の神を創り、その神から理性を持った人間が自然を支配する権利を与えられたと考えます。
稲作をする民は、水、雨、水を蓄えておくための森、周りのすべての自然に対して畏敬の念を持ち、そのひとつひとつが信仰の対象となり、そこから多神教が生まれました。

これまでの時代、砂漠で生まれた宗教は、
「灼熱の太陽、乾燥した空気、荒野、・・・これこそが自然であり、神が創りたもうたものである」
と説き、肥沃な大地で生まれた宗教は、
「豊かな自然の恵み、柔らかな日差しと風、・・・この自然こそが神の姿である」
このように人々に語り伝えてきました。

信じる宗教を持つ多くの人たちは、自らが信仰する宗教こそが最高の真理であり、普遍的なものであると信じています。
けれどもその宗教は、それが生まれ発展してきた土地や時代の気候風土が色濃く反映した、ある意味ローカルなものであるという事実を、もっと深く知る必要があります。


今人類は、大きく精神文明を成長させる時を迎え、水という融合の時代に入り、世界中すべての人々が共有できる自然本来の姿から、思想、宗教を生み出すべき時が来たのだと思います。

自然が見せる表情は実に多様で複雑です。
それを人間の頭で理解していくのはきわめて困難です。
けれども感じることはできます。

だからこそこれからの時代の宗教は、学び、考えるのではなく、気付き、感じ取っていくものとなるのです。

ブルース・リー

    Don't think. Feel.
         考えるんじゃない。
             感じるんだ。

     ~ 「燃えよドラゴン」より ~


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