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2019年2月5日 ・・・ 日常と平和
昨日のホームページに高田渡のことを書き、
久し振りに彼の映る映像を見て、
そこで語られている言葉がとても心に響きました。
「いつもいるその風景、
それを歌うこと自体が本当の反戦だと思う」
被爆都市広島で暮らしていると、
平和や戦争、原爆といったことは極めて身近な存在であり、
それらをいつも深く考えているようで、
その実まったく深く考えていないのではないかと感じることがあります。
原爆で焼け野原になった広島の風景は、
たびたび写真で見る機会があり、
被爆直後の悲惨な光景について、
被爆者の方たちから何度も直接話を聞かせていただきました。
そしてこれはまったく当たり前のことですが、
悲惨で忌むべきことはすべてが焼き尽くされた焼け野原そのものではなく、
平穏無事な日常、それが一瞬にして壊されたということにあります。
長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日、
その投下直前の二十四時間の長崎に暮らす人々の日常を描いた
井上光晴原作の「明日」という小説があり、
それを映画化されたものを観たことがあります。
<TOMORROW 明日 - Wikipedia>
昭和20年当時の長崎の人々の暮らし、
家庭内で様々な行事、出来事があり、学校では軍事訓練が行われ、
そんな悲喜こもごも、淡々と流れゆく日常の風景が描き出され、
最後は原爆が投下されたその閃光が画面いっぱいになる、
そんなシーンで映画の幕を閉じたように記憶しています。
映画に描かれていた人たちは、
その後どうなったのだろうか・・・、
それを観ている者の想像に任せることによって、
原爆の持つ真の恐ろしさである “日常が破壊される” ということが、
より深く身に沁みて感じられます。
自分が最も好きな映画「誓いの休暇」も同様です。
1959年当時のソビエトで作られたこの映画は、
あの名作「ひまわり」と同様、
ほとんど戦場を描くことなく強烈な反戦メッセージを送っています。
そのあらすじは、ウィキペディアに実に上手くまとめられています。
通信兵アリョーシャは、戦場で2台の敵戦車を対戦車ライフルで撃破した勲功により将軍から特別に6日間の休暇を貰った。アリョーシャの心は故郷へとはやるが、戦場の見知らぬ僚友から妻への伝言を頼まれるなど帰郷の道のりは困難を増した。さらに途中、妻のもとに復員する傷病兵を助けたりしているうちに列車の乗り継ぎが遅れ、休暇は瞬く間に過ぎて行く。肉の缶詰で哨兵を丸め込みやっと乗り込んだ軍用貨物列車の中で、アリョーシャは少女シューラと出会う。列車の中の枯草の片隅で、束の間だが二人は心を通わせる。途中、水を汲みに行ったアリョーシャは軍用貨物列車に置き去りにされ、シューラと離れ離れになる。老婆が運転するトラックに乗せて貰いシューラの後を追うアリョーシャは、到着した駅でシューラと再会する。ほっと一息ついて食事をした時に、戦場の見知らぬ僚友からの頼まれ事を思い出したアリョーシャは急ぎシューラと街中へ出る。こうして訪れたアパートに居た夫人は男を囲っていた。僚友の妻への信頼が裏切られた事を知ったアリョーシャは、土産の石鹸を渡さずアパートを去った。そして僚友の父親を尋ね石鹸を手渡して、本当は何も知らぬ僚友の作り話をして聞かせるのだった。そして、ついにシューラとの別れの時がやって来た。本当はお互いに好意を寄せていたのだが、何も言わぬままアリョーシャは列車に乗りシューラに別れを告げた。列車の旅も故郷に近づいた時、不運にも空襲に遭い鉄橋が破壊され先へ進めなくなったアリョーシャは、川を筏で渡りトラックをつかまえて故郷へと急いだ。そして故郷の村にたどり着いた時、休暇はもう帰りの時間を残すのみであった。村人から歓待され母親と抱き合い僅かな言葉を交わしただけで、アリョーシャは「帰る」と言い残して慌ただしく麦畑の道を戦場へと引き返した。しかし、戦争が終わってもアリョーシャは村に帰ってこなかった。年老いた母は今日もまた、麦畑の傍らで帰らぬ息子を待ちわびる。
もし戦時下という非日常でなければ、
ごく平凡な家庭の喜びを味わい、
愛し合う恋人たちは楽しい語らいの日々を過ごし、
親子の情愛にたっぷりと浸ることができたのに・・・。
ラストシーンでアリョーシャがほんの束の間
母と抱擁し合い、言葉を交わしただけで別れを告げ、
トラックの荷台の上から手を振って去っていく、
そこに、もう二度と母の元に帰ってくることはなかったという
テロップが流れる、
こんな深い悲しみを感じる映画の場面はありません。
本当の深い悲しみは、特別な状況にだけあるのではなく、
ごくありふれた日常、それが壊される中にこそあるのだということを、
この映画を観てとても強く感じます。
当たり前の日常を壊されることは深い悲しみです。
そしてその日々過ごす日常を当たり前と感じ、
そこに喜びを見いだすことができないことも
また悲しみであり不幸なことです。
「いつもいるその風景、
それを歌うこと自体が本当の反戦だと思う」
日常当たり前のことに目を向ける、
それが平和への道なのかもしれません。
2019.2.5 Tuesday
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