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2018年6月21日 ・・・ 生命を観じる

日本の六月は梅雨のジメジメした季節ですが、
インドでは、新しい学年のスタートする爽やかな季節です。

今の時期思い出すのは四年前、南インドのカルナータカ州、
ビジャプールにあるコスモニケタン日印友好学園に
三ヶ月半駐在した時の思い出です。

6月17日が新年度スタートの始業式で、
その式典に参加し、そのまま9月末まで、
可愛い子どもたちとともに楽しい思い出をたくさん作ることができました。

この二枚の写真は、四年前のちょうど今日、
6月21日に撮ったものです。





最高に素朴で可愛らしくって・・・、
この屈託のない明るさが、
人間が本来持つものだということを子どもたちからを教えてもらいました。


ビジャプールは雨の少ない地域で、
それほど自然が豊かではありません。



そんな中、家で家畜を飼ったり、
ほとんどの家には冷蔵庫がないので、
近隣の畑で採れた農作物を新鮮なうちに料理をし、
日々の糧として質素に暮らしていました。



豊かではなくてもその自然と密着し、
大地の育む生命を感じ(観じ)ながら生きていくこと、
そこから人間が本来持つべき幸福感が培われていくのだということを
学びました。

幸福とは、自然やそこから生み出される秩序といかに関わり、
それと折り合いを付けながら生きていくのか、
そういったところから生み出されていくのだと感じます。


それに対して日本人の暮らしは便利で快適ではあるものの、
その豊かさの代償として自然から隔離され、
生命をほとんど感じることのない生活を送っています。

文明とは、自然、生命に抗(あらが)い、
遠ざかることであるとも言えるでしょう。

日本でも山には木が茂り、
公園や街角、家の庭などにきれいな花を見ることができますが、
それらは本来の自然の姿から分離されたものであり、
それらと周りの自然との中に
生態系としての循環関係を見ることはできません。

自然とは、ただ生きているものがあるというだけではなく、
それらが共生し、生態系として循環リズムを築いていているのが
本来のあるべき姿であり、
インドの村ではそれを日常として感じ、
日本ではそれをまったく感じることができません。

ここが田舎に暮らすインド人と文明にどっぷり浸かった日本人との
幸福感の差であり、
笑顔の輝きの違いが生まれる所以だと感じます。


生命とは、すべてのものが根底に持つものです。

今の日本のほとんどの子どもたちは、
日頃口にしている野菜が枝から生えているものか土に埋まっているものなのか、
本や学校の先生に教えてもらはなければ、
それを知ることはないでしょう。

肉や魚は生命ある生きものの体の一部だということは頭で理解していても、
感覚的には、たぶん料理されたお皿の上か、
トレイにタッパをかけて載せられたものといった感覚でしょう。

この生命に対する感性が鈍くなるということは、
すべての判断力に陰りを与えるものです。

これは今日ネットで見たニュースです。

<大阪地震、生徒のスマホを没収する教師が続出 「命より校則」に疑問相次ぐ>

当サイトでも断続的にお伝えしている、18日に発生した大阪北部地震。登校中にブロック塀の下敷きになった9歳女児ら5名がすでに亡くなっており、余震にも警戒が向けられている。

そんななか、連絡用にスマホ、携帯電話を学校に持ち込んだ生徒が、教師にそれを没収される出来事が相次いでいるようだ。

■親からの安全確認の電話で没収に

たとえば、奈良県にある有名私立進学校の生徒は、以下のようにツイートし、学校外で見回り中の体育教師にスマホを没収されたことを告白。事情を説明するも…
「地震が昨日あったから親に持ってけ言われてる言うたら、学校に規則に反するって言われたから、非常時の親との連絡とか自分の命より、ルールが大事ですか? って反論しても学校のルールや言われて終わりました」
と、受け入れてもらえなかったよう。

これなどは、生命観をなくした日本人の姿を示す典型的な例だと思います。
生命とはどこかから勝手に湧き出てくるものではなく、
また水道の蛇口をひねったり、
電気のコンセントを入れたりするように、
高度にシステム化された社会の流れ、ルールに、
ただ乗っかっていれさえすれば育まれるものではありません。

けれど現代人は、99.9%それで事足りる生活に慣らされ、
そこからしか物事を判断できず、
本来の生命ではなく、頭からの発想しかできなくなってしまっています。

そしてこのような教育、指導を受けた子どもたちは、
将来、ライフラインがすべて寸断されるようなパニックが起こった時も、
生命よりもまず社会秩序を守ること、
それを第一義とするようになってしまうでしょう。

簡単に結論づけることはできませんが、
東日本大震災で多くの児童が犠牲となった大川小学校の問題も、
指導者の危機管理の甘さ、生命観の欠如というものが
根底にあったように感じます。


この18日の大阪での地震、
そしてそれを含め、約一週間ほどの間に、
死傷事件、自殺等で四回も大きく止まった日本の大動脈とも言える新幹線。
今日本の社会基盤の何かが大きく変わろうとしているのを感じます。

高度に発達した社会、それを立て直すには、
その対極にある自然の一造物としての
人間の生命観を取り戻すしかないと考えます。

この世はすべての相対の世界、
絶対善、絶対悪は存在しません。
文明も同様で、そこに強い光がると同時にまた影も存在し、
その影を認識し、そこを上手く是正し付き合っていくことが、
文明の恵みを最大限に享受する唯一の道です。


今から23年前の95年、
地下鉄でサリンが撒かれ、
地下鉄の通路や階段でもがき苦しみ人を尻目に、
大股でそれを乗り越え、ただ黙々と会社への道を歩いた日本人は、
これまでの間残念ながら、
失いつつある生命観を取り戻すことはできませんでした。

けれどもう後はありません。
生命観という生命の尊さは、
今からでも自らの手で観じ取っていくしかありません。
さもなくば、何らかの外圧によって
無理にでもそれを知らしめられることになるでしょう。

文明を捨てるのではなく、
その大元を振り返るということ。

日本人にそれができたなら、
今経済的に伸びている多くの国々に、
その姿を、高度な文明と付き合うひな形として示すことができます。

そしてそれが日本ら与えられた天命であると信じます。

2018.6.21 Thurseday  
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