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2015年11月13日 ・・・ 起こってくることが恵みである

人間は心の奥底にいろんな思いを持っていても、
普段はそれが表に出ることはなく、
自分自身で気がつくこともありません。

けれど時折思いがけないキッカケでそれが表に現れることがあり、
それを機に、あらためて自分というものを知ることができ、
またその事に対しての思いも深まります。


ある女性が地震が起きた時の体験を語っていました。
夜中寝ていて突然大きな地震の揺れを感じた時、
周りからものが落ちてくる危険を察し、
思わず隣で寝ていた旦那さんの頭を毛布で覆ったそうです。

その人にとっては、一家の家計を支えてくれている旦那さんが
怪我をして働けなくなることが最も恐れていることなんだと、
その時に気がついたそうです。


以前何度か書きましたが、
昨年の9月末日、インド三ヶ月半の滞在を経て大阪の関空に降り立ち、
財布、携帯、カメラ、パソコン、鍵、・・・
すべての貴重品が手元からなくなってしまったと知った時、
不安とは対極の、ただ生きている、その根源的な喜び、
至福としか表現できない感情が胸いっぱいに広がりました。

その直後に奇跡的な出会いがあり、
無事家まで帰り着くことができ、荷物も後日無事家に届いたのですが、
あの喜びの感情を沸き立たせてくれたのは、
紛れもなく、百日余りの間、常に変わらぬ笑顔を見せてくれた
インドの貧しい村の子どもたちの力であり、その生き様です。

百日もそんな子どもたちと接していると、
少しずつ自分の心が変わっていっても、
なかなかそのことに気がつくことはありません。、
けれどあの関空でのトラブルがあったお陰で、
そのことを心に深く刻み込むことができました。

あのトラブルは、まさに己の魂が強い力で引き寄せたものであり、
神の計らいと言っても過言ではないように感じます。
本当に感謝、感謝です。


同じくインドのことですが、
二年前の夏、とても親しい人たちと最高のローケーションで
最高の料理を美味しいお酒とともに楽しんでいました。
その時ふとインドのホームで子どもたちと食事をしていた時のことが頭に浮び、
止めどなく涙があふれ出たことがあります。

どんな贅を尽くした最高の場所で最高の料理を出されたとしても、
自分にとっては、ホームで可愛い子どもたちとともに食べる、
あの一時の喜び、味わいに勝るものはありません。
そのことが、あの時の涙とともにハッキリと理解することができました。

自分は生涯かけてあの貧しくも明るい子どもたちのために尽くしたい、
そう心で強く誓うことができました。
  <最高のもの>


母が亡くなった時、その前後に感じた一連のこと、
特に京都の東寺にお礼のお参りに行った時、
あのほんの一瞬に感じた悟りとでも言うべき体験は、
母の深い愛を知ると同時に、
生命、魂の深淵に触れる素晴らしくも貴重な体験であり、
数々の母との思い出とともに、心の中に大切にしまっています。
  <母の愛>

あの体験から、人間誰しもが持つ尊い魂の存在を知ることができ、
またその体験をさせてもらった責任感とともに、
これからもその魂の尊さを追い求めていかなければならないという
使命感を感じます。


こんなふうに過去を振り返ってみると、
トラブルや不幸なことも含め、
「何かが起こる」、そのこと自体がやはり恵みですね。

その起こってくることが、表面的にいいことであるか悪いことであるか、
そんなことは関係ありません。
どんなことが起ころうとも、そこに気づきや喜びの種があり、
それを活かしていくことこそが、生きる目標であり指針ではないかと感じます。

またそう語れるのは、
自分自身が年齢とともにいろんな経験を重ねてきたからでもあります。


55年間生きてきて、これまで大きな病気は一度もしたことがありません。
入院や内科的手術もいまだ体験したことがなく、
健康に日々生きられることを深く感謝しています。

とは言え、年齢的にもすべてが快調と言うわけではありません。
ママチャリで一日百キロ走っても平気なぐらいの体力はあるものの、
体のあちこちでは時折悲鳴が聞こえます。

悲鳴が聞こえても、
『健康は自らが造り上げるもの』という信念の元、
日本では、歯医者と整形外科以外は三十年近く医者にはかかっていません。
決して誉められることでも人様に勧められることでもありませんが ・・・ 。


もう十年ぐらい前のことだと思いますが、
脇腹から背中にかけて断続的に激しい痛みに襲われたことがあります。
いろいろ調べてみて、もしかして腎臓結石かもしれないと感じたのですが、
そのまま養生し、結局医者にかかることなく症状は治まってしまいました。

これも十年近く前からですが、
時折突発性難聴になり、それが長いスパンで断続的に起こります。
断続的に起こるということは、一時的にでも回復するということです。

ある時突然に右耳の調子が悪くなり、
耳が詰ったようになり、特に高音の聴力が低下し、
ひどくなるとほとんど聞こえない状態にまでなってしまいます。

突発性難聴は、とにかく早期の治療が大切とのことらしいのですが、
これも一切治療を受けることなく、
数週間から数ヶ月ぐらい経て自然とほぼ元の状態に戻り、
また何年か経って再び難聴の症状が現れるということを繰り返しています。

ここ数年はそれが現れず、
最近は肉体も進化したのかなと勝手に喜んでいたのですが、
一二ヶ月前からまた右耳の聴力が落ち始め、
ここ一二週間は、九割方聞こえないところまでいき、
生活にも多少の不調をきたすようになりました。


ここまで聴力が落ちるのは初めてではないのですが、
今回は、このまま治らないのではないかという不安が湧いてきます。
それは少しずつ年齢を重ねてきているということ、
そして心の持ち方として、以前のように、
『治ることが幸せであり、治ることが絶対善である』
というような信念がなくなっているからだと思います。

たとえ片耳でも聴力を失うことは嬉しいことではありません。
正直言って不安もあります。

けれど人間の感情は、一本の定規の目盛りの上で、
プラス、マイナスといった一元的尺度で計れるような単純なものではありません。
不安があれば、その対極の希望もあり、
またそれらとはまったく異なる様々な感情も入り乱れ、
思いとは、それらがすべてひとつとなって形作られています。


このたび、右耳がほぼまったく聞こえなくなり、
あらためていろんなことを感じ取ることができました。

先に書いた『何かが起こる、そのこと自体が恵みである』、
このことが、自分の心に深く浸透しているということがよく分かりました。
これはとても嬉しいことです。

聴力を失うのは悲しいことですが、
その悲しみや不安よりも、
今このことによって、自分の魂は何を求めているのか、
そこからどんなものを得ようとしているのだろうか、
こういった期待の方がより大きいのです。

また右耳は不調だと言っても、
身体の他99%以上は同年齢の人様以上に健康です。
毎晩お風呂の中では全身を手でさすりながら、
健康であることへの感謝の思いを、
動作と視線、言霊によって捧げているのですが、
このたびのことで、その感謝の思いもさらに深めることができました。


これも以前に書きましたが、
二十歳の時に神前で神に寿命の半分を捧げ、
その結果、本来ならば五十歳で命が尽きるところを、
二度の死に目に遭うというサインとともに、
今も余生としての命を頂いています。

寿命は変えることができるものではあるものの、
今の流れで行くと、
自分に与えられた余命は最長あと二十五年しかありません。

この有限の命、そして天、両親、ご先祖様からいただいたこの肉体を、
命尽きるまで大切に、与えられた機能、能力に文句を言うことなく、
存分に活かし、大切にしていきたい、
これも右耳に不具合を感じることによって、
また深く心に刻むことができました。


今は日々の活動の中で、障害を抱えた人たちと接する機会が多くあります。
一日中車椅子の上で生活し、
その車椅子への乗り降りすら自分の力でできない方、
両手の指を何本もなくしながらも明るく毎日を過ごしている方、
そんな方たちと明るく対等に、そして偉そうに接している自分が、
ちょっと片方の耳が聞こえずらくなったからといって落ち込んでいたら、
その人たちに合わせる顔がありません。

一年前、極貧の暮らしの中で明るく暮らすインドの子どもたちのことを思い、
一文無しになってしまった関空で明るい希望をもらったのと同じように、
今ほんの少しの障害を得る(!)ことによって、
普段何気なく接していた重い障害を抱える人たちから、
いかに大きな希望をいただいていたかということがよく分かりました。


こうしていろんなことに気づけること、
これ自体が喜びであり、
それに至るキッカケとなった形はまったく何の関係もありません。
いつも言うように、大切なのは自分の外にある形ではなく、
自分の心の内、その外なるものと自分がどう関わりを持つかということです。

この機能を喪失した耳もひとつの命を持ち、意志を持っています。
この命ということは、以前左肘を骨折し、
その左肘に「サッちゃん」と名前を付け、声を出して呼びかけ、
その返事をもらった時から己の体で理解しています。
  <身体との対話>

こうして右耳のことに思いを馳せ、
心の内を探りながら文字を打っていると、
右耳の命が感応するのでしょうか、
少しずつ聴力が戻りつつあるのを感じます。

さきほど九割方聴力を失ったと書きましたが、
今テストをしてみると、左耳の半分近くまで聴力が戻っています。
これはここ一二ヶ月で最高の状態です。


右耳がくれた命からのメッセージ、嬉しいですね。 (^o^)v
以前左肘にサッちゃんと名前を付けたのと同様に、
右耳には「ミーちゃん」と命名しましょうか。 (^-^)

二ヶ月ほど前、沖縄の知り合いから豚耳のミミガーという
美味しい燻製をいただいたのですが、
なんだかそれを思い出します。


今この時、ミーちゃんがくれたメッセージを大切にし、
これを機会にもっと己の心を深く見つめていきたいと思います。

けれどもそれは、あくまでもミーちゃんの思いを大切にしたいからであり、
右耳が聞こえないままではイヤなので、
それを何とかしたいという思いからではありません。

お陰様で、そういった表面的な願望は手放すことができるまでになりました。


人間の持つ肉体、その生命は有限ですが、
魂は永遠に光り輝き続けるものであり、
そのことを、自分は幸いにした母から教えてもらうことができました。

その永遠の命を礎とし、
有限の生命、肉体の律し方を見つめていけば、
様々な迷いも悩みも吹っ切れていくのではないでしょうか。
自分もまだそれが完全にはできていませんが、
少しずつ少しずつ、サッちゃんやミーちゃんの力を借りて歩めていけることは、
とてもとても幸せなことです。

その永遠と有限の境を感じる最も基本となるものは、
やはり「身体との対話」です。
お風呂では、
手のひらで全身を丁寧に撫でながら、
感謝の言葉を口から発し、
その時は視線もしっかりその手を当てているところに当ててみてください。

こんな簡単なことで幸せのキッカケをつかめるなんて素晴らしいですね。
また簡単だからこそ素晴らしいのです。

『素晴らしものを 素晴らしいと思える あなたの心が素晴らしい』

 ・・・ 本当は、『美しいものを ・・・ 』なんですけどね!



2015.11.13 Friday  
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