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2013年8月16日 ・・・ お盆に思う<2>

お墓に参って手を合わせることで、
その思いが亡くなった方たちに本当に届くのかどうか分かりません。
これは証明不可能なことであり、
宗教的迷信だと言ってしまえばそれまでです。

けれどお墓は亡くなった方たちだけのものではありません。
先祖を敬い、亡くなった方たちに思いを寄せ、
それによって今生きている人たちの心に安らぎを与えることができるのですから、
それだけでも十分に価値のあるものだと感じます。


死後の世界がどうなっているのか、その詳細を知ることはできませんが、
死後の世界を見た多くの人の証言や、この時空の成り立ちから考えて、
ある程度は推測することは可能です。

人間の肉体は個々完全に独立したものですが、
引き寄せの法則が実在するということから考えて、
目に見えない何らかのものがあり、それを介し、
すべては繋がっていると考えるのが妥当です。
それはたぶん一般的に意識と称するものかそれに類するものなのだと思われます。

人間の存在は、いつか必ず滅するその肉体に
100%依存しているわけではありません。

人間はその肉体の中に肉体とはまったく別個の存在としての霊、
魂というものを共有していて、
それは肉体が滅した時、あるいはそれ以前にも何らかのキッカケがあれば、
肉体を離れて外に出て行きます。

これは自らの体外離脱の体験から分かることであり、
きわめて多くの人たちが同様の体験をしています。


体外離脱や臨死体験をしたほとんどの人が、
この体の外に意識体(霊、魂)が抜け出るという体験をしていますが、
その後臨死体験者たちが見たという “死後の世界” は、
必ずしもその証言が一致するわけではありません。

日本人の臨死体験者がよく語るのが、
死後の世界に広がるお花畑や三途の川の存在ですが、
これは日本人独特のものであり、
臨死体験をした欧米人は、そういった光景はほとんど見ることがないそうです。

これはたぶん亡くなった(亡くなりかけた)方たちが生前抱いていた
民族的な自意識や宗教観に左右された結果であろうと考えられます。

つまり死後の世界とは100%客観的なものではなく、
たぶんに主観的要素が入る、
人の想念の延長線上のようなところに形作られたものではないのかと想像できます。


今年亡くなられた小野春子さんは敬虔なクリスチャンであり、
小野さんは数々の病魔と闘ったその生涯を通し、
愛と人間の持つ可能性の偉大さを説き続けられました。

小野さんは世界でも例を見ない一時間という長時間に及ぶ
臨死体験(死亡体験?)を二度経験され、
その時に死後の世界のあり様をしっかりと見てこられ、
それを時折講演の中でも語っておられました。

その時に見たものを絵で表現したいとたびたび話しておられましたが、
それは急いで描く必要はないのだとも言っておられました。
それはその時に見たものの印象は鮮烈であり、
普通に見たものとは異なり、
時とともに記憶が薄れていくようなものではないからだとのことでした。

これは光に包まれすべてとの一体感を受けるという覚醒体験、
悟りの感覚を得た人たちが語ることとも一致します。

小野さんが死後の世界を旅した時は、
モーゼの弟であるアロンに導かれたそうです。

今日はお盆ですので、小野さんの講演録その部分を抜粋して転記します。
小野さんの真実と愛を感じ取ってください。


● 最初の臨死体験で、黄泉の国に行かれた時の様子を、よかったら教えてください?

みなさんどうですか?(拍手)
一度お話ししたことがあるんです。
聞きたくない人もいるんですよ、だからその時は座をあらためました。
大丈夫ですか、みなさん。(はーいと大きな拍手)
本当にいいですか?(拍手)

めったに話をしませんけど、だけど言いましょう。
いわゆるこの世で私たちは肉体を持っています。
で五感を持っていますよね。
その五感は何を作りますか?
感情を作るでしょ。
感情はすぐバーッと浮いてくるものじゃありません。
目で見て、あっイヤだ、心の中で感情がイヤだイヤだイヤだ、見たくない。
そうでしょ?耳で聞きますね、あれ、あの人私の悪口を言っている、あの人の前はイヤだ、これも感情のひとつ。
触るのもそうです。
五感を通して感情が作られます。
だから心ですよね、感情は。

私の孫が小さい時に、私がお風呂に入って
「気持ちいいわよね〜」って言いましたら、その子どもが
「気持ちちょうだい、おばあちゃん」て言うんですよ。
気持ちちょうだい?私何か言ったかしら?
今気持ちいいって言った、お風呂上がりだからね、その気持ちをちょうだいと言う・・・。
出せるもんじゃない、「は〜い」なんて取り出せません。
心でしょ、心は目に見えない、肉体に付随している、感情を作る、それが行動に表れる。
言葉になって、みなさんと刺激し合ったり、仲良くなったり、いろんなことをします。
その心です。
いいですか?心は肉体が死んだら一緒に死にます。無くなります。
なぜなら五感が作り出しているのですから。
私たちが死んだら肉体はどこに行きますか?
火葬場に行くじゃないですか。そこに心が残るわけない。

その心の奥に魂があります。
いいですか?この魂は死んでも残ると言われています。
そしてその魂の奥に霊があるんです。
分かりますか?魂と霊の違いが。
魂はさまよう、だから死んで一週間以内は家の周りをさまよって、法要しなければならないとか、いろいろあります。
その魂の奥に霊があるんです。

霊はさまよいません。
けどその霊が、生きている間に大きく成長するかしないか、そこなんです。
魂の奥に霊があり、その霊が命を持っているんです。
一番はじめに言いましたでしょ、人間は土から作られ、鼻の穴から神が聖霊を吹き込まれ、そして命が宿った。
これです。分かりますか?
この霊、みなさんの中にあるこの霊を、生きている間に豊かに成長させるということに、永遠の命があるんです。
だから人間肉体は滅びても、永遠の命は絶対に死ぬことはありません。
だから私は死を恐れないんです。分かりますか?
死は最終的なものではない、肉体がダメになるだけ、そして私たちは肉体がすべてではない、そうでしょ?

肉体がすべてだったら、私はここに立って、こうして歩いているわけはない。
私の存在は、霊が肉体を支えている。
でも肉眼で見る場合は、肉体がなかったら、みなさんとこうしてお会いできません。
だから肉体があるということはたしかです。
その霊をみなさん全員が持ってらっしゃるんですから。
その霊を生きている間に豊かにしてください。
向こうは魂の国とはいいません、霊界といいます。
そうでしょ?

私は信仰を持ちなさいというのではないんですよ。
自分が信頼できていれば、霊は豊かに成長することができるんですからね。
日常の心がけだけで、必ずしもあれをしなさい、どこかに行きなさいということはないんです。
でもあえて言えば、信仰を持ってくださいと願っています。
信仰とは、信じて仰ぎ見ること。
「希っている事柄を確信し、まだ見えない事実を確認することです」
(ヘブライ 11:1)

目に見えるものに希望をおくのではなく、目に見えないものに希望をおくのです。
そこに内なる人が清められて、霊は豊かに聖霊の導きによって成長していくのです。

その霊界、4つの段階があります。
一番下は、真っ黒い煙と真っ赤な炎で包まれた第一段階。
そこへ行って、さらに4つに分析して帰りました。
ひとつはですよ、ちょっとむごいことを言うようですが、湖というか、泥沼です。
その中を何かが泳いでいました。(第一段階の1)
なんだろう、泥沼の中だからワニかカバか・・・、そばに行ってじーっと見たら、淵のところにしがみついてキョロキョロキョロキョロ、絶対に人間の顔です。
でもその人間の顔が正常ではないということ。
なぜ上がってこないんだろう?上がれないんですよ。
ちょうど魚が淵のところに来てアップアップしても上には上がれません、そんな感じです。
よく見れば手足もあります。
でも上がってはこれない沼地の人間。

その体は霊体といいます。
私たちは普通の人体です。
こちらは肉体があって中に霊がある。
向こうには霊が行くから、それにふさわしい体ができる、これを霊体といいます。
その霊にふさわしいんですよ。
いいですか?この世でいかに顔が醜くて、怪我をして手足を取られる、あるいは顔を手術して半分ない、世にも醜い姿であっても、その霊が素晴らしい霊であったら、向こうではそれにふさわしい霊体ができるんですよ。
地上にある時、自分のために生きてるんじゃない、あなたのために生きてるんだ。
あなたに何をしてあげられるか、こうしてくださいと言われたら、我が身を削ってでもその人のために幸せを・・・、その思いが、行動が、祈りが、霊を豊かに成長させ、地上の生活を終えた時、霊は霊界に行って霊体となる。

本当に正常なところは、霊界の三段階、四段階です。
すごい紳士淑女たち、こういう人たちが世の中にいるのかな?というようなところですよ。

一番下の沼地の世界でも、その次の段階(第一段階の2)でははっているんです。
トカゲや蛇みたいに、エッ、なんで足があり手があるのに、立って歩かないんだろう?
シヤーシャーシャーシャーとはうんです。
その次(第一段階の3)は四つ足、動物です。
尻尾があるのかなと思って見たんですが、ありませんでした。
次(第一段階の4)は立って歩いています。
ここは第一段階の一番いい状態にあるんでしょう。二本足で立ってますから。
でもその人たちの顔を見ます。
顔がちょうどピカソの絵、分かりますか?
右と左がずれていたり、顔が半分無くって後ろにいって・・・。
エツ、どうなってるの?って思いますが人間です。
一番下はこんなふうに4つに分かれるます。

それから二段階目、ここは普通です。きれいです。
青々とした野原、けれども花はそこには咲いていませんでした。
人影もまったくありません。
小鳥はさえずっていました。
晴れやかないいお天気でした。

それから次に行きました。
そこを三段階目と四段階目に分けたわけなんです。
私はその中段に行きました。
中段に連れて行かれたのは、そこからは上(四段階目)も下(三段階目)も見ることができるからなんです。
上は素晴らしいですよ。
上に行かれないんですかって言ったら、パッと上がりましたね、瞬間的に。
アロンが私を支えてくれて、抱いてくれるんですよ。
それであっという間に上の世界です。
すごいです。見たこともないような大きな建物、後で調べてみましたら、黙示録に出てきています。
黄金の、ダイヤモンド、サファイヤ、ルビー、そういったものでキラキラキラキラ輝いています。
その明るさ・・・、ものすごい光ですが、絶対にまばゆくはありません。
心まで研ぎ澄まされたような、きれいな、疑ってしまうような、こんなことあるんだろうかなって・・・。
そこへ行っている間は、自分が死んで来たという意識はまったくないんです。
体もそのままですから。

そこは花がきれいに咲いていますし、小鳥も飛んでいます。
その前に大きな宝石の塊のような建物があり、お庭があるんですよ。
そのお庭から私の間は、ずーっと草原のような感じ。
そしたらその建物の中から、2メートル以上もあるような背の高い白い衣を着た方が空中を歩いてこられるんです。
顔は光り輝いていてハッキリとは見えません。
ちょうどイエスが海の上を歩かれましたが、それとよく似ていますね。

その方がスーッとこっちに来られて、かなり隔てていますが、衣をサーッと上げて、
手をあっちに行きなさいという感じで動かされるんです。
招かれているんでしたら、手を逆の方に動かして「来なさい、来なさい」でしょ。(笑)

だからよかったわけです。
だまったまま。ニコーッと笑ってね、三度。
あのね、三度というのは特徴なんです。
聖書の中を見ましたら、3、4、7、・・・7は最高の数字です。
そして三度というのは、イエスが語られる時三度、あらゆるところに三度というのが出てきます。
三度、まだ来るべきじゃありませんと・・・。

目を閉じた瞬間、パーッとベッドの上でパッチリです。
それで主治医たちがエーッとこうやってのぞき込んでらっしゃいました。
これがその写真です。



以上です。(拍手)

2013.8.16 Friday  
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