おくりびと
一人一人が持つ人間としての尊厳、
それは元気で生活している時でも、病の床に伏している時でも、
また臨終の時を迎える瞬間であっても変わることはありません。

特に愛する家族に対しては、
病気や怪我で体の自由がきかなくなったり、
残された時間があとわずかとなった時など、
より深い思いと尊厳をもって接するものです。

けれども人は、誰に対してもそのように接することができるわけではありません。
人生の年輪を重ねた人が病院に入院し、一人の患者となった時、
その人の息子よりも若い医師から、
ベットの横でポケットに手を突っ込みながら見下げられるように
ぞんざいな言葉を交わされているのを見ると、
一人の人間としてとても悲しい気持ちになります。


プライド、怒り、喜び、照れ、人間の持つ様々な感情は、
たとえどんな状態になろうとも、元気な時と同じように持ち続けるのは、
当然のことです。

私の父は胃ガンになり、一度は手術をして健康を取り戻したものの、
4年後に再発し、最後は一本の木が枯れていくようにして息を引き取りました。

入院中は、病状の進行に伴って少しずつ表現手段を奪われていきました。
遠くから新幹線に乗って昔からの友人が病院に訪ねてきても、
言葉を交わすことができず、
ただ必死に言葉にならないうめき声なような音を立て、
目で何かを訴えかけている父の姿を見ているのは、
息子として耐え難いほどつらいことでした。

そんな状態になっても父は、最後まで必死になって人間としての感情やプライドを
保ち続けていました。

ある日、知り合いの婦人が病室を訪ねてきた時に、
母が父のパジャマを着替えさせていました。
その女性はその横で、ほとんど無表情のまま裸にされている父の姿をただ眺めています。
父は恥ずかしいという思いがすごくあったのでしょう、
まったく自由にならない体を必死に動かし、
少しでも裸をその女性の視線にさらさないよう努力しているように
私の目には映りました。

しかしそんな父の思いをその女性はまったく関知することができないのか、
ただ父のそんな姿を無表情に眺めています。
きっとその女性の目には、体の自由がきかなくなって死の時を待つ父の姿は、
一人の人間ではなく、ほとんどモノのように映っていたのかもしれません。

弱者にとって、視線ですら時として暴力になることもあります。
そして視線によって人間の大切な尊厳を傷つけることもあるのです。
そんな父の思いを感じながら、
それについて何の言葉も発することもできずにいた自分自身をとても情けなく感じました。
まだ私が二十代前半だった頃のことです。


別の日に、私の幼い頃からの友人が家族と共に父を見舞いに来てくれました。
彼は父とそんなに深い親交があったわけではないのですが、
やせ衰えた父の姿を見て、彼は病室を出た後、涙を流してくれたそうです。
その場にいなかった私は、そのことを後で母から聞きました。

心優しい彼の思い、私の大切な父に対して流してくれた涙、
そのことがどれだけ私の心に熱いものを届けてくれたか計りしれません。

数年後、彼が大阪市内のホテルで結婚式を挙げ、
私は母と二人で式に参列しました。
帰り際、ホテルの前でタクシーに乗り込む直前に礼服を着た彼が見送り、
言葉をかけてくれました。

「ノブちゃん、今日はどうもありがとう」

その言葉を聞いてタクシーに乗ると、
その言葉から、彼の優しさ、父にかけてくれた思い、
諸々の感情が一気にわき上がり、
タクシーの後部座席、母の横に座りながら、
しばらくの間声を上げて泣きじゃくってしまいました。

私の大切な父にかけてくれた彼の思い、
それに対する感謝の気持ちはどんなに年月が経っても決して変わることはありません。
今もこうしてその時の感情を思い出しながらキーボードをたたいているだけで、
一筋の涙が頬を流れてきます。


95年、阪神大震災、オウムサリン事件、
激動の年に母は天寿を全うし、安らかな旅立ちの時を迎えました。
  (「母の愛」をお読みください)

病院に入っていた数週間、その後の通夜、葬儀、
その間に、病院の看護師さん、お医者さん、親戚、知り合い、お友達、
たくさんの方たちのお世話になり、
みなさんにお礼を述べ、頭を下げました。

そんな中でも、亡くなった母の遺体を丁寧に心を込めて扱い、
死出の旅路の準備を整えてくださった納棺師のお二人には、
格別の思いを込めて感謝の気持ちを捧げました。


家の前に車を止め、そこから給排水の二本のホースを庭に横切らせ、
布団で静かに眠る母の横に浴槽を置き、
若い男女お二人の納棺師さんが母の体を洗い清め、
きれいな白装束の衣装を着せて化粧を施し、棺に納めてくださいました。

どなたか親族の方が立ち会ってくださいとの申し出に、
私以外の親族は誰もつらくて見ていられないとのことで、
私一人が部屋の隅で手を合わせながら納棺師さんの作業を見届けさせてもらいました。

完璧な様式美とも表現できるひとつひとつの心を込めた無駄のない動き、
故人をいたわりながら、この上なく丁寧に扱ってくださるひとつひとつの所作、
“仕事だから” と言ってしまえばそれまでですが、
深い故人に対するいたわりの気持ちがなければ、
そのような体の動きはできようがありません。

日々遺体と接し、生と死を見つめ続ける中で、
魂の奥まで研ぎ澄まされたような体の動きが自然とできるようになったのでしょうか。

母の体をきれいに棺に納めてくださったお二人に対して、
私はその場に正座をし、両手をつき、頭を深々とさげました。
もし心というものに形があり、それを表に出すことができるのならば、
お二人にその時の私の気持ちを見てもらいたかった。
形だけではなく、心の底からお二人に感謝の思いを持っているということを
分かってもらいたい、その時強く思いました。

その時のことを思い出し、もし今だったら、
私の愛する母を深く慈しむように扱ってくださったお二人のその両手を
きっと強く握りしめさせてもらったことでしょう。

一般的に死というものにまつわる仕事は忌み嫌われる傾向にあります。
けれども私の母をこの上なく丁寧に心を込めて扱ってくださった
お二人の納棺師さんの姿を見て、
こんな尊い仕事が他にあるのだろうかと思いました。

人間の誕生をお手伝いくださるお医者さんや助産師さんたちが尊いお仕事であるならば、
納棺師さんや葬儀にまつわるお仕事をされている人たちも
それにまけない尊い大切なお仕事であるに違いありません。


本木雅弘主演で納棺師を描いた映画「おくりびと」が話題となり、
アカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされたと聞き、
遅ればせながら映画館で観てきました。

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stars2008年邦画ベスト1
stars印象に残る作品である。
stars見つめ直す
stars小山薫堂のデビュー作にして伊丹十三監督へのオマージュ。
stars澄んでる

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  「おくりびと」公式サイト

納棺師というシリアスな題材が適度なユーモアを交えながら
実にうまく描かれていて、
多くの人がこの映画を高く評価し、
何人かの知り合いは、映画館に複数回足を運んだと言っていたのもうなずけます。

身近な人を見送った経験のある人なら、
この映画は涙なくして観ることはできません。
それぞれの人が、身近な愛する人や、過去の人生のドラマを思い返し、
深い感銘と共に涙することでしょう。

死を見つめるということは、生を考え直すのと同じことです。
生きることの意味を今一度見つめ直すいいキッカケとなる映画です。

  〜 死とは終わりではなく、ひとつの門をくぐるようなものなのだ 〜



納棺夫日記 (文春文庫)
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stars「おくりびと」以上に感動しました。
stars「命」って、「死」って
stars死生観を問う書
stars日記部分はそう多くありません
stars「死」と向き合う仕事 映画「おくりびと」を観てから読みました

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2009.2.11 Wednesday


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