こだわりと囚われ
パソコンようやっと復旧しました。

ハードディスクをすべてフォーマットし、OSを新規に再インストールしました。
購入時のサラの状態に戻り、心機一転です。

メール以外のすべてのデータも、なんとかバックアップすることができ、
少しホッとしています。

トラブルメーカーなSP2以外はしっかりとアップデートし、ウイルスソフトも入れ、
ブラウザ(インターネット閲覧ソフト)もInternet Explorer から他のものにチェンジしました。

これでしばらくは大丈夫でしょう。
これからはより一層大切に扱っていきたいと思います。

パソコントラブルが続出し、データ喪失の危機にさらされ、
(実際に、メールはすべて消失したのですが)
自分にとってパソコン、インターネット、データとは何なのか、
これまでそれらとどの様に関わってきて、これからどう活用しようとしているのか。

自分の周りを取り囲むすべてのモノ、属性が自分にどういった影響を与え、
どう付き合っていくべきなのかということを深く考えさせられました。

大切なものにこだわりを持つということは価値あることだと思います。

しかしそれが囚われ(とらわれ)となり、執着するようになると、
本末転倒であり、本来価値がある素晴らしいものが
人を苦しめ、不幸にする材料となりかねません。

昔出していたホームページに「阪神大震災が再び起これば」
というようなタイトルで以下のような文章を書いたことがあります。
(原文がないので新たに書きました)
    その後見つかりましたが、そのままにしておきます。 ココ


   食文化の乱れきった現在の日本、
   その中で正しい食生活のあり方を求める方が  少しずつ増えてきています。

   玄米菜食を中心とし、肉、魚はほとんど摂らず、
   野菜はすべて有機無農薬、水は高価な浄水器を通したもの、
   高価なサプリメントを毎日飲み、添加物の入ったものは一切口にしない。

   自然の理に適ったいい食品を摂る、
   それはそれで大変素晴らしいことです。

   いい食品を摂ることによって、健康で幸せな生活を過ごすことができる、
   それは一面では事実であります。

   しかし食にこだわりを持つ一部の人の中には、
   こだわりを通り越し、それが囚われになってしまって
   いるように見受けられる方がおられます。

   「これがいい」という考え方が膨れ上がり、
   「これじゃなきゃダメ」、
   「これがないと健康、幸せになれない」
   という否定的な考え方がベースとなり、それが知らず知らずの内に
   その人を苦しめることに  なってしまっているのです。

   阪神大震災のような大きな災害が再び起き、身も回りのすべてのモノを失い、
   避難小屋で食べ物は配給されるものだけとなった時、
   食に対する度を越したこだわり(囚われ)を持ち、
   それまで一番健康に留意していた人が  真っ先に病気になってしまうかもしれません。

   ポリタンクに入った水道水、添加物が大量に含まれている
   カップラーメンでも感謝して美味しく食べることができる人と、
   自らの食に対する知識が囚われとなり、
   身近にある多くの食物に対して恐怖心を抱く人、
   どちらが幸せになれるかということです。


どのような囚われでも、普段の生活の中でそれを意識することはほとんどありません。

けれども自分のライフスタイル、殻を破らねばならなくなった時、
その囚われが苦しみとなり、大いなる葛藤を味わうこととなります。

自分の身の回りにあるすべてのモノ、属性は、自分を幸せにするためにあるのであって、
それが無くなると不幸になってしまう自分を作り出すためにあるのではないのです。

何もない素のままの自分の姿に幸せを感じ、
その上に更なるものを加え、幸せ、喜びを増す。

これが自分の外にある「もの」とのいい付き合い方であり、活かし方です。

あなたが大切にし、こだわっているものは何でしょうか。
それを自分の本当の幸せのために活かしておられますでしょうか。
依存し、囚われてはいませんか。

今一度確かめてみてください。

  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

再度お知らせいたします。

これまでいただいたメール、すべて消失しました。ぶぅぶぅ(`ж´)

最近久しぶりにメールを下さった方、
ホームページの感想をお寄せくださった方、
お手数ですが、再度メールいただければ幸いです。m(_ _)m

2004.12.04 Saturday




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