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サンカランコービルより


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今日は3月28日月曜日、
今回第二の目的地であるサンカランコービルの
日本山妙法寺サンカランコービル道場に来ています。
サンカランコービル道場は、南インドとのご縁を作ってくださった
石谷政雄上人のおられるところです。

ここ最近はインド滞在時にネット接続し、
ホームページを更新するようにしています。
今回はチェンナイに到着してすぐにMicrosoftのスマートフォンとSIMカードを購入し、
それでネット接続を試みたのですが、
昨日までいたチェンナイのホームは田舎すぎてほとんどネットがつながらず、
更新することができませんでした。

それと正直言って今回は、
ホームの子どもたちといつもと同様、あるいはそれ以上に深く楽しく交流し、
こちらでの非日常であるパソコンを触るということにどうしても抵抗がありました。

この時期の南インドは日々晴天、
朝夕は涼しいもの日中は日本の真夏と同じです。
ココナッツやたくさんの木々、植物、花が生い茂り、
牛や小鳥、リスたちが走り回り、
可愛い子どもたちがその中でのびのびと暮らし、
飯田さんと二人、日本からの来訪者を心から歓迎してくれて、
毎回思うことですが、ここはまさに地上の楽園です。

朝は午前6時の礼拝に始まって、
夜は8時半過ぎから子どもたちと食事をして部屋に戻るまで、
日々ささやかな喜びを子どもたちと共有し、
ただ淡々と、そして奥深く、何ものと比べるのではない内からわき出る幸せを感じ、
その中にパソコンという機械と向き合う時間を組み入れることが、
どうしてもできませんでした。

過去にはホーム滞在中にこまめに更新をしていたこともあったのですが、
今回はそれと何が違うのかよくわかりません。
ただ子どもたちと子どもたちを育む豊かな自然の中で、
そのリズムに則った暮らしをしたい、それを崩したくない、
そう強く感じたのです。

今はサンカランコービルの日本山妙法寺のお寺に来て、
子どもたちと離れ、久し振りにパソコンと向かおうという気持ちになっています。


今回の旅の概要を思いつくまま書いてみます。

今回は昨年同様エアインディアを利用し、香港を経由してデリーに行き、
そこで翌日国内線に乗り換えて、南インドタミルナド州の州都チェンナイに入りました。

エアインディアは預け入れ荷物が23キロ二個までOKで、
今回はいろんな方から文房具やお菓子、カメラ、サッカーボール等をいただき、
また子どもたちが喜びそうなものをついつい大量に買い込んで、
二人でこの規定の重量がいっぱいになるまでバッグの中に詰め込みました。

もう四個の荷物の支度をするだけで大変な作業です。
飯田さんは二個、自分も一個を先に出発地の関西国際空港に送り、
それを17日の出発当日に関空で受け取り、
搭乗手続きをしたのですが、
とにかく荷物が大量で大重量なので、四個の荷物すべてが規定重量に収まるよう、
搭乗手続きをするカウンターで再度詰め直し、
なんとかギリギリOKをもらいました。

「これからインドの児童養護施設に行くので、
 これらはほとんどそこに持って行くお土産なんですよ」
そんなことをカウンターの女性に話したら、
彼女も懸命に荷分けの手伝いをしてくれました。
そんな気持ちに触れられるだけでハッピーです。

荷造りをする、それを送る、広島の家を出る、
関空で搭乗手続きをすます、
それらひとつひとつがまるで関所のように感じる精神的重労働です。

これはチェンナイ空港に着き、
すべての荷物をカートに乗せた状態の写真です。
この写真からその量を感じ取っていただけますでしょうか。



飯田さんと二人、
「これだけ荷物あれば店が一軒開けそうだね」と冗談で話すほどでした。


話は前後しますが、
今回は旅に至るまでの流れがとてもよく、
今回の旅が実り多きものとなることを予感させられる機会がたびたびありました。

飛行機搭乗時に預け入れる荷物三個は事前に送っていましたが、
残る一個分がどうしてもひとつのバッグに収まらず、
そのことで家を出るまで頭を悩ませていました。

16日の出発前日はいつもと同じく奈良県天理市にある
天理教平成講に泊めていただいたのですが、
その平成講に至る徒歩15分ほどの道のりの一部は、
日本でも有数の古臭い(!)店が建ち並ぶ商店街です。

宗教都市天理市で泊まり込んで研修を受けたり参拝されたりする方たちは、
かなり年配の方が多く、
そこにある信者さんたちを対象とした店も、
昭和の、それも四十年代あたりで時間が止まってしまったかのような店が多いのです。

その商店街の中に鞄屋さんがあり、
何気なくそこを横目で見ながら歩いていると、
ものすごく大きくて安そうなバッグが上からぶら下がっているのです。

店のおっちゃんは結構商売気のない無愛想な人でしたが、
値段を聞くと1200円、
その時持っていた大きな布製バッグの二倍の容量がありそうです。
即購入することにしたのですが、値段は税込とのことで二度ビックリです。

上の写真右手前の黒いのがそのバッグです。
化学繊維のかなり丈夫な造りで、
ピチピチに荷物を入れても布地もファスナーもびくともしません。
こんなに安くてその時の要望にピッタリのバッグ、
まさに天から降ってきたかのように手に入り、超ハッピーでした。


飯田さんは南インドは昨年に続き二回目ですが、
前回右手でご飯を食べることに抵抗があったらしく、
昔学校給食で使われていた先割れスプーンが欲しいと探し回っておられました。

先割れスプーンは数十年前までは日本でポピュラーな存在でしたが、
一時行儀が悪くなると批判を受け、
それ以来ほとんどその姿を見ることがなくなったしまいました。

今回自分も広島市内の店を何軒か探してみたのですが、
一番大きな百円ショップでも、ドンキホーテでも、
先割れスプーンを見つけることができませんでした。

ところがその先割れスプーンが、
出国前日に泊まった天理の教会にあったのです。
何でも話してみるものです。
教会の大きな食器棚の引き出しに、
まだ現役で使える状態の先割れスプーンが何本かあり、
そのうちの一本を飯田さんがもらい受け、
現在インドでバリバリと使っておられます。

インドの旅の本質とはあまり関係のないことを書きましたが、
こんな旅の後押しをしてくれるようなことがいくつもあったということです。


さらに付け加えてもうひとつ、
いつもインドに行く前の日に天理の教会、平成講に泊まるのは、
そこが関空へのアクセスがいいということ、
そして天理教は自分の精神世界の原点であり、
今は天理教からは離れてしまったものの、
そこで真摯に真理を求めているたちと接することで、
大事な志の大元を再び振り返ることができるからです。

そしてその振り返る作業を毎回することで、
そのたびごとに己の変化も感じ取ることができます。

平成講にはいつも何人か住み込みで勤めている信者さんたちがおられますが、
自分は天理教からは離れてしまったものの、
そこの先生とは最もご縁が長く、古くから天理教と関わり、
また心のあり方についていつも宗教から離れた自論をとうとうと語るので、
まるで珍獣パンダでも見るような目で、みなさん熱心に話を聞いてくださいます。

いつもは天理教に対して当たり障りのないことしか話さなかったたのですが、
今回は初めてより大きな流れの中での宗教のあり方や
一神教と多神教、絶対と相対など、
天理教で説かれていることが必ずしも絶対ではないということを、
かなり核心に迫った言い方で話をさせてもらいました。

しかもそれをきちんと受け入れて、
定期的にそんな話をして欲しいとまで言ってくださるのですがら、
さすがは長年心の原点として誇りを持っているところです。
とても嬉しくなりました。

そんなこともあり、
今回は出発日の朝天理を離れた時点でとても満足した気持ちになり、
もう旅は半分終わったような気分になってしまいました。


またまた話は大きく飛びますが、
チェンナイのホームにいる時はあんなにパソコンに触れられなかったのに、
今ここ日本山妙法寺サンカランコービル道場にいると、
どんどんと書きたい気持ちが高まってきます。

今この時点で28日インド時間の午後10時前、
朝は4時からお勤めなので、
石谷政雄上人、木村千草庵主さん、飯田さん、
みなさんもうお休みになりました。

自分も昨夜は寝台バスで移動をし、
ほとんど睡眠はとっていないのですが、
なぜか頭がよく冴えています。


チェンナイのホームにいる時は本当に天国でした。
子どもたちもまたとても喜んでくれて、
いつものように別れ際は、男の子、女の子、
たくさんの子どもたちから「行かないで〜」、「さみしいよ〜」
と半泣きの状態で抱きつかれました。

別れは子どもたちだけではなく、
自分にとってもとてもさみしいものですが、
子どもたちのいないここサンカランコービルに来て、
これまで子どもたちがいた心の部分にポッカリと穴が空いたことを強く感じ、
別れた時以上に寂しさを感じます。


チェンナイのホームで子どもたちと過ごした時間は、
これまで訪ねた時とほとんど変ることがありません。
ただ楽しくともに時を過ごす、それだけです。

その上でこれまでも感じてきたことを、
今回もあらたに感じ取らせてもらいました。
それはこの二点です。

最上の喜びは、ただ一方的に与えるものではなく、
互いに分かち合うものである。

最も深い喜びは日常の中にこそ存在する。


総論的なことばかり書いていますが、
子どもたちがほんのささいなことで喜びを感じ、
大はしゃぎしてくれるたびに、
心の中の、最も大切で最も忘れがちになってしまうところが
光とともに満たされていくのを感じます。


手にはめて動かす動物のぬいぐるみ、
300円ショップで買ったのですが、
こんなものでもみんなで引っ張り回しながら喜んでくれます。



ぬいぐるみにはピンキーという名前も付けてくれて、
みんなが触りまくり薄汚れたので、
最後はきれいに洗濯までしてくれました。

風船も今回はたくさん持って行きました。
日本だと風船を喜ぶのは小学生ぐらまででしょうが、
ここインドのホームでは、高校生だって大喜びです。



風船を持って記念写真を撮ろうということになったら、
またまたみんなで大はしゃぎです。
自分一人で、友だちと、・・・ いろんな組合わせで撮って欲しいと騒ぎまくります。

なるべくたくさんの風船が入るようにと腕を伸ばして風船を差し出すと、
こんな風に顔が隠れてしまうこともあるのです。



こんな時はわざとその瞬間にシャッターを押し、
「オー!ミステイク!」と大げさに言うと、
またまたギャーギャー大騒ぎです。

なんで子どもたちはたった風船ひとつ、
写真も撮るだけでプリントするわけでもないのに大いに喜び、
はち切れるような笑顔を見せてくれるのでしょうか。

モノが豊富ということではなく、
その対極にあり、
より本質的でより価値のある豊かさ、
それがここにあります。


ささやかなものは形あるモノだけではなく、
心遣いひとつでも喜びです。

この男の子は以前からチェンナイホームにいるちびっ子ですが、
ちびっ子らしいいい顔をしています。



この子に限らずですが、
子どもたちはみな名前を覚えて欲しがります。

彼の名はキリタイン、もう十回ぐらい「マイネーム?」と質問され、
名前を言わされました。
そしてきちんと名前を言ってあげるとニコリと満足そうな表情を浮かべます。

自分のことを見てもらっている、大切に思ってもらっている、
そう感じられることが嬉しいのでしょうね。
けれど嬉しいのはあなた、子どもたちだけではないのですよ。
何度も名前を質問され、そのたびに喜び、はしゃぎ、
とても大切な存在として扱ってくれるイイダブラザーとサカイブラザー、
二人のブラザーもとってもとっても嬉しいのです。
本当に、言葉にできないぐらい ・・・ 。


今回は子どもたちの日常だけではなく、
非日常の楽しい一時も体験させてもらいました。

26日の土曜日、ホームから車で一時間ちょっとのところにある
クイーンズランドという遊園地に行き、
子どもたちとプールに入り、たくさんの乗り物に乗って一日楽しみました。



インドと日本のプールの違いは、
インドのプルーは女性、子供用と、男性用のエリアがしっかりと別れています。
これは滝などの水場も同じです。

そしてプール、水場にはほとんどの人が水着ではなく軽装で入り、
女性エリアは写真撮影禁止、これがインドのコモンセンス(常識)です。

子どもたちからいいところに行くからいい服に着替えてこいと言われ、
手持ちの一番いい服装で行ったのですが、
プールに入ってずぶ濡れになってしまいました。

子どもたちもおしゃれなドレスを着ていましたが、
着替えをきちんと用意していて、
プールではプール用の服を着て、
自分一人がその後もずぶ濡れだったのですが、
南インドは灼熱の太陽が照りつけ、
その後しばらくすると生乾きになってきてノープロブレムでした。

ホームの子どもたちはどのぐらいの頻度でこういうところ来るのでしょう。
子どもたちのホームとはまた違った喜びの表情を見ていると、
嬉しいと同時に胸が熱くなってしまいます。





そしてこんな時でもブラザー、ブラザーと言ってくれて、
一緒に乗り物に乗りたがり、喜びを共有し、
自分の子ども時代も含めて最も楽しい遊園地体験をさせてもらいました。


それにしても子どもたちの “今を楽しむ” 能力はすごいものです。
与えられた条件がどのようなものであったとしても、
それをただ受け入れる。
そして受け入れるからこそ楽しめる。
環境、貧富の差、カースト、・・・
すべての面で大きなダイナミズムを見せてくれるのがインドの特質です。

ホームにいる日常でも、遊園地にいる非日常でも、
子どもたちはその時を大いに楽しんでいます。

学校でも、ホームから通っていることで、
一般家庭の子どもたちに引け目を感じているように見受けたことはありません。
学校生活を楽しみ、
ホームでは決められた規則を守り、
薄暗い灯りの下、硬い床や地べたに腰を下ろし、ただ黙々とテキストを開いています。

遊園地で、今の日本では絶対に見ることのできない光景を目にしました。
いわゆる障害を持った背の低い男性がピエロに分し、
周りの人たちを楽しませているのです。



インドでは障害を持った人たちを目にすることがよくあります。
観光地や街中にいる物乞いの人たち、物売り、
また一般的な労働現場でも、
障害を抱えながら、できる範囲で懸命に働いている人たちの姿は、
なにか都合の悪いものを隠蔽するのではなく、
すべてをオープンにし、
その中で懸命に生きようとするインド人の強い精神力を感じさせます。

だからインドがよくて日本が悪いと言っているわけではないのですが、
このダイナミズムを心地よいと感じるかどうか、受け入れられるかどうかで、
インドが好きか嫌いかが別れるように感じます。


インドのホームでの日常は、
すべて決まったタイムスケジュールに則って進んでいて、
その中で毎回何を感じるかは自分自身の心のあり方の問題です。

今回でホームを訪ねるのは六回目ですが、
トイレ掃除と出合った直後の訪問は、
インド人たちとの心の交流が、より深くおおらかにできるようになったのを感じました。

「ザ・マジック」を読んだ後の訪問は、
感謝の心を深く抱くことによって、
子どもたちと喜びをより深く共有できたように感じました。

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そして今回はインドに着いてから「幸せになる勇気」を読み、
そこで述べられているアドラーの思想が深く心に突き刺さりました。

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幸せになる勇気は、子どもたちが勉強やお絵かきをしている間に、
「ブラザーも心理学の勉強をするからね」
と言って、子どもたちの横で読みました。

アドラーの概要についてここで簡単に述べることはできませんが、
これからの人生を生きる上において、
新たなテーマと視座を与えてくれるものとなるのは間違いありません。

アドラーの教育の基本は、
叱ってはいけない、ほめてもいけないということですが、
これを理解し、実践するのは至難の業です。


ホームの子どもたちは何でも喜んで受け入れてくれる大人の存在を求めています。
ブラザー、ブラザーとすがりつくように寄ってきて、
なるべくそれを笑顔で受け入れるようにしているのですが、
ある時それの度が過ぎて、
肩にかけているカバンを勝手に開け、
そこに入っているお菓子を無断で食べてしまいました。

その時少しきつく叱ったのですが、
それがよほどショックだったらしく、
その場にいた女の子何人かが泣き出してしまいました。

その後は数時間してまた元の状態に戻りましたが、
可愛い子どもたちを通し、
優位な立場から恐怖と力で相手を支配しようとする己の心を見て取ることができ、
大いに反省させられました。

やはり純真な子どもは最高の鏡であり師となりうる存在です。


繰り返しますが、
インドのホームでの日常はいつもほとんど変ることがありません。
変るのはそれを受け取る己の心、見方です。

何度もホームを訪ね、
そのたびに新たな発見があるわけではありません。
日常の中にこそ深い喜びがあるのと同様に、
ありふれた日常の中にこそ深い真理があり、
その真理とはあらたに見つけ出すものではなく、
ただ気づかずにいたものにしっかりと目を向ける、
そういうものだと思います。

淡々とホームで子どもたちと時を過ごし、
そこで気づいたものを子どもたちと同様純真な目で受け止め、
いつかそれが満ちてきたら、
きっとまた新たなものを求めたいという気持ちになると感じます。


チェンナイのホームを離れる際、
少しの義援金をホームのオーナーのスレッシュに手渡しました。
その時に「また来年も来させて欲しい」と言ったのですが、
その返事として、ここ最近インド政府の規制がとても厳しくなり、
特に女児の管理に対しては
かなり具体的な規制項目が設けられていることを伝えられました。

昨年もそのことを言われましたが、
今年はまたさらに厳しくなったようで、
その管理マニュアルのような冊子、
チェック項目が並んだ三十ページ近くもの書類も見せられました。

十八歳未満の男児と女児はなるべく施設、通用門等別々にもうけて隔離すること、
そういういう規制もあり、
実際にカニャクマリのホームではそうなったそうです。

チェック項目の中にはエイズに関するものもあり、
日本では小学生で妊娠する女児がいると聞いたことがありますが、
インドでもまた同様とのことです。

ここサンカランコービルでその話をすると、
八年前に行ったことのあるマドライという都市にある
チャンドラボースが運営する仏教系の児童養護施設では、
政府の規制があまりにも厳しいので、
女児を受け入れるのはやめてしまったそうです。


これら規制は自分にとってまったく嬉しいものではありません。
また外国人がホームを訪ねることが、
この規制の上からも好ましくないのであれば、
もうインドのホームに来るのは止めるべきではないかとも考えます。

昨年初めて政府の規制について知った時、
他にも前歯が折れたりカメラやパソコンのトラブルがあり、
「身の周りで起こることはすべて正しい」
この言葉を心の中で何度も呪文のように唱えました。

今年はアドラーについて学ぶ機会を得て、
過去や悩み苦しみ、それが起こった原因に対して心囚われることなく、
ただ今の状態から、
「これからどうするか」
これを深くと見つめられるようになりました。

すべてを受け入れ、それを喜びとするホームの子どもたち、
そこから得た学びを、今度は自分自身が実践する番です。




サンカランコービルで書いたページをアップしようとしたら、
SIMカードの契約容量オーバーしてしまい、
ネット接続ができなくなりました。

今は3月29日、サンカランコービルからバスを乗り継ぎナガラコイルに行き、
そこからオートに乗ってスギルタンたちの実家マダラムドラに来ています。
明日はカニャクマリのホーム、アンブマナイに行く予定です。

今さっき部屋で荷物を下ろしたら、
スギルタンが天理で買った巨大なバッグを見て、
「こんなバッグはインドにないから是非売って欲しい」と言ってきました。
さすがいいところに目を付けますね。
また心の故郷天理に行けということでしょう。



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