インド・スリランカの旅
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3月3日  カンニャークマリ





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我が心のインド




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昨夜はゆっくりと快適なベットで寝たものの、少し脱力感が残ります。
けれどもここには可愛い子どもたちがたくさんいるので、
きっと彼らの顔を見ると元気を取り戻すことでしょう。

またいつものように外に出ると、
鳥の世話をしている子どもがインコを見せてくれました。

インコと少年

可愛くておとなしいインコを私に手渡してくれて、
インコも私の手の中でじっとしていたのですが、
しばらくすると急に暴れ出し、手の中から外に向かって飛び出していってしまいました。

私は大慌てでインコを追いかけますが、
すばしっこいインコはそう簡単には捕まってくれません。
けれどもさすがは手慣れた鳥の飼育係の少年です。
ほどなくして彼が上手にインコを捕獲してくれて事なきを得ました。

子どもとはいえ毎日鳥たちと接している少年の鳥の扱いは見事なもの、
たんに技術的なものではなく、心から鳥と意志が通じているような感じを受けました。


今日は近くでヒンズーの聖者の誕生日を祝う大きな祭りがあるそうで、
ホームの職員のヨバンさんが案内をしてくれるそうです。

ヒーローホンダでドライブです

彼の運転する “HERO HONDA” の後部座席に乗り、
まずはカンニャークマリの駅に向かいました。

カンニャークマリの駅は薄紫色のとてもきれいでしゃれた駅舎です。

とてもきれいなカンニャークマリ駅

ここでヨバンさんが切符を買うのをベンチに座って待ちました。

カンニャークマリ駅の切符売り場

インドの人はみなのんびりとしています。
旅行者なのか仕事で遠出をする人なのか、
切符を買う人も売る駅員も慌てた様子は一切なく、日本の駅の風景とはほど遠い世界です。


何のために切符を買ったのかよく分からないのですが、
切符を手に入れた後、再びバイクにまたがり、
今度はヨバンさんのお宅へと向かいました。
奥さんと子どもさんが二人、私を出迎えてくれました。

家族総出でお出迎えしてくれました

外国人である私が珍しいのか、たわいもない話でも熱心に耳を傾けてくださり、
私もインドの一般家庭の雰囲気をリラックスムードで味わいました。

インドに着いた翌日に参列した結婚式の式次第を見せると、
10才になる娘のゲオリン・バシニちゃんが声を出して読んでみてくれました。

ヨバンファミリー

可愛い声で文字をひとつひとつなぞるように読んでくれます。
それを見守る両親、日本の家庭と一緒ですね。

ここの家にはパソコンがあり、インターネットはつながっていないものの、
Windows XP のマシンで子どもたちがゲームを楽しそうにしていました。

一家は熱心なクリスチャンなのですが、
インドの宣教師が歌を歌っているDVDがかからないので見てほしいとのことで
パソコンを操作してみました。
DVDの規格は日本と他の東南アジアの国々のものとでは異なります。
またCDに動画が入った CD-Video というのもインドではよく見かけました。

Windows の操作は日本のものも英語バージョンも基本的に同じです。
DVDスロットルに入れただけでは自動再生しなかったディスクを再生できるようにし、
よく見たいもののようでしたので、ついでにハードディスクにコピーして、
ディスクトップにそれを再生するためのショートカットを作ってあげました。

ちょっと小太りでちょび髭を生やした牧師さんが
海や山で両手を大きく広げながら
なんだかポピュラーミュージックみたいなのを熱唱しています。
これのどこがいいのか、なんで子どもが喜ぶのかさっぱり分かりません。

彼女は私のハンドルネームがヨガナンダだと言うと、
学校のテキスト(だと思うのですが・・・)のヨガについて書かれたものを見せてくれました。
一緒に手に持っているのはイエス・キリストのキーホルダーです。

ヨガのテキストとキリストのキーホルダーを持つバシニちゃん

彼女に学校の勉強について聞くと、タミル語の単語を紙に書いてくれました。
これはタミル語の母音、日本語の “あいうえお” に相当するものです。

タミル語の母音です

Wikipedia のタミル語を説明しているところを読むと、
タミル語の基本はa, i, u, e, oの五母音であり、
それに長短の別と二重母音(aiとau)が加わることで計12の母音を区別することになる。

と書かれています。

たしかに彼女は上の母音を
「ア、アーア、イ、イーイ、ウ、ウーウ、エ、エーエ、オ、オーオ、アイ、アウ」
みたく発音していたように記憶しています。
これを知っただけでもタミル語を少し理解した気分になれました。

彼女もとても人なつっこくて日本に連れて帰りたいぐらい可愛らしかったですね。
インドはなんでこんなに子ども子どもした可愛い子ばかりなんでしょうか。


お昼は何を食べたいかと聞かれたので、
ほとんど名前を知らないインド料理の中で唯一ハッキリと名前とものが一致する
マサラドーサをリクエストしました。

台所の横でしゃがみながら奥さんが料理を作ってくれています。

自然と一体となったインドの暮らし

庭には飼われているニワトリが歩き回り、
家をすぐ出たところでは、羊飼いが群れをなす羊とともに餌を求めてさまよっています。

この光景を見て、
『すべての自然、命はつながっていて、
 それが日常の暮らしの中で息づいているからインドはすごいんだ』
そんなメッセージが瞬間的に頭の中に浮かんできました。

高度に発達した文明、文化というのは、人々に利便性、快適性を与え、
それはそれで素晴らしい恩恵ではあるのですが、
その反面、自然や生命という私たちの生の根本の部分を見えなくしてしまう側面があります。

とてつもない貧富の差、浄、不浄の混濁した世界、
生と死、人間も動物も一体となって暮らすインドの大地に、
生命の持つダイナミズムを見た思いがしました。


食事をした後、バシニちゃんがサイクリングをしようと誘ってくれて、
向かいの家の同い年ぐらいの女の子と三人で自転車に乗って外に出ました。
私が乗せてもらったのはたぶんお兄ちゃんの自転車で、
小さいけれどもなんとか乗れないことはありません。

サイクリングといっても家の前の道を200メートルぐらい左右に行き来するだけなのですが、
小さい子にとってはそんかなことでも嬉しいようです。

家を出てすぐに向かいの女の子の自転車のチェーンがはずれてしまいました。
バシニちゃんが直してあげようとするのですが、
よく見ると完全にチェーンが伸びきっていて、
こんな状態ではすぐに外れてしまうのも仕方ありません。

私がその子の自転車を押して家に戻り、
工具を借りて後輪をゆるめてチェーンを適当なテンションになるよう張り直してあげました。


私のような旅行者にとって、遠い異国の地でどんな形であれ “役に立つ” という経験は、
何者にも代え難い喜びです。

パソコン操作、自転車修理、ささいなことではありますが、
「オレもインドで役立つことができたんだぞ~」
と声を大にして叫びたいほどの得難い経験と喜びでした。 ^^☆


結局ヒンズーのお祭りとやらには行くことなく、
そのままヨバンさんのバイクでホームに戻り、
私は彼の家に招かれて100%満足だったのですが、
スギルタンにしてみればなんだかコミュニケーションの行き違いがあったようで、
少しご機嫌斜めでした。

私もスギルタンの話す英語をその場で完璧に理解することができないので、
適当に聞き流したりしていますので要反省です。
「もっとしっかり英語を勉強しろ」
とスギルタンに怒られてしまいました。 (;^_^A


夕方、ホームの中をうろついていたら、
女の子たちがコテージの上に案内してくれました。
ここではなんかの植物の実を干しています。

女の子はやっぱり可愛いですね

さっき訪ねたホーム職員のヨバンさんの家の子どもたちは
インドの中流家庭としては普通なのでしょう、
自転車、パソコン、人形などを持っていて、
のびのびと明るく育っています。

けれどもここホームの子どもたちにはそういったものが何ひとつありませんが、
彼らも輝くような笑顔を持っています。

私たちが生きていくためには水や空気、食べるものが絶対に必要です。
しかしそれ以外の多くのものはものは、あれば便利、なければそれはそれで何とかなる
といったものがほとんどです。

モノは私たちが生きていくための道具に過ぎません。
あくまでも主体は私たち自身にあります。

資本主義は悪しき宗教的側面を持っています。
資本主義の原動力は物欲にあり、
私たちは “モノが豊かになれば幸せになる” という教義にすっかり洗脳されてしまっていて、
その教義が本当に正しいものなのかどうなのか
振り返って検証することを一切しなくなってしまっています。

モノは上手く活かせば私たちの暮らしに福音を与えますが、
モノが手段から目的となり、人とモノとの主従関係が逆転し、
人がモノの従者のようになってしまっている私たちの社会では、
いくら利便性、快適性が発達したとしても真の幸福を得ることはできません。

便利さ、快適さを与えてくれるモノが悪いのではありません。
それらモノとの関わり方を考えず、
ただ闇雲にモノを追い求めることを唯一絶対の目的としてきたことに問題があり、
それらが様々な社会不和、環境破壊などの大きな要因となってきたということは
多くの人にとって異論のないところでしょう。

私たちが最も尊ぶべき “命の輝き” は、
私たちの身の回りにあるモノからいったん目を離し、
己の奥を見つめなければ得ることができないのです。


夕食前、近くの中学校の校長先生が訪ねてきて、
スギルタンと談笑しながら棚に飾られていたダチョウの卵の模型をしげしげと眺めています。

校長先生がダチョウの卵を鑑賞中

のんびりと椅子に腰かけ時を過ごしていると、
突然夕立のような激しい雨が降り出してきました。

激しい雨降り

日本では夏場夕立が降ることはよくありますが、
乾期を迎えた南インドでこのような激しい雨が降ることは珍しいそうです。

私がインドにいる間、さすがに雨は少なかったものの、
どんよりと曇ったような天候の日がよくありました。

自然豊かな南インドですが、
世界的な異常気象の兆しはこんなところにも現れてきています。


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