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Iさんのレポート ・・・ 音楽とふっちゃん

先月22日、東京でインド人兄弟たちと出会うために上京した際、
いつもメールや電話でメッセージのやり取りをしている
茨城県のIさんとお会いしました。
主にオーディオのことについてですが、その時のことは、
このホームページでもご紹介しています。
  <東京観光>

Iさんは、その時以来ご自分の中で様々な気づきを得られたらしく、
まだあれから一ヶ月ちょっとしか経っていませんが、
ひとつひとつ新たに湧いてきた思いを実践し、
着実にそれらを自分のものとしてこられました。
本当に素晴らしいことです。

Iさんに今の思いを文字にすることにより、
多くの人にその思いを共有してもらい、
またIさんご自身の心の内により深く刻み込んで欲しいと願い、
心境をレポートとして書いていただくことにしました。

これはそのレポートの第一弾とのことです。
どうかお読みください。

* * * * * * * * * *


ここ最近、酒井さんとの出会いにより、私自身が変わってきた。
何が変わったのかは、以下に述べることとして、最近とても明るく過ごすようになってきたのである。

私は、約3年前に母をガンで亡くした。私の中でそのことは非常に大きくいつもどこか気になっていた。
私は、もっともっと母には生きて欲しかった。母も、父を置いて亡くなることを非常に気にしていた。
私も、ガンはきっと治ると心から信じ、特に兄と父は、母の治療に全身全霊尽くした。

私は、茨城で実家は山口なので、そうそう帰ることはできないので、兄と父に頼る他無かったが、
私は、なぜ、病気が治らないのかずっと考えていた。病気治しが宗教では無いが、なぜ、日々反省懺悔し、日々を祈りの
時を過ごしていた母に、なぜ救いの道が示されないのかある意味悲しかったのである。
でも、母を亡くし、父は寂しさを感じていたが、最近では、声も張りがとても良く、気丈な父を誇りに感じている現在である。

さて、私の方は、ガンや病気というものに憎しみを感じ、その原因は何なのか、自分なりの答えが欲しかった。
それが、一つ目の私の探求と苦しみであった。

2つ目は私には、建設業で、経営に携わっていて、毎日が不安と恐怖の日々を感じていて、どうにかならないか
未だもって苦戦しているが、事故、物損、怪我など、職人がそういう事を起こすと、たちまちに現場は大混乱になります。
そして、相当にお客さんに迷惑をかけ、さらなるルールの徹底、そして、相当な圧力がかかり、いずれは、会社組織が無くなるのでは無いかという恐怖と、いつ事故が起こるのかという不安と、お客さんの要望に貢献したいという思いから、心穏やかでない日々を過ごしていたのである。

そんなある日、ローゼンクランツのホームページを見たところ、清貧オーディオということで酒井さんが紹介され、只ならぬ、レポートがそこに書かれていた。この人はきっと何かを持っていると感じ、何やら、少し答えが有りそうな気がするので、酒井さんのホームページに書き込みを始めた。
その頃は、特に事故物損が多く、とことん追い込まれていたので、音楽など楽しめる精神状態はそこには無かったのに
出会いとは、不思議なものである。

そして、いつしか度々メールを送るようになり、私も本題の部分を申し上げた。
酒井さんから私に、善悪二元論の考え方の人とは、合わないから、別の人と話されたらどうですかみたいな返事が返ってきた。
私にとって意見の相違など、当たり前と感じていたが、私のような建設業の経営に携わる人が同じような条件下でその苦しみをどう克服したのか、そういう体験談は無いのかということに核があると思っていたので、しつこく尋ねた。

酒井さんから、出てきた回答は、その答えは自分で見出すしかないとのこと。
実際、考えてみればその通りだったのだが、やはりちゃんと会って、お互いちゃんと話をし、何か掴むものは無いものかと感じていた。
9月に、酒井さんは、ちょうど東京に行く用があるが、会いませんかという言葉を電話で頂いた。
そして、会いましょうかというこことなり、念願の対面を果たすこととなった。

私が会った酒井さんは、とても若く感じられ、なにかはつらつとした、自信を持っておられるといった印象を持った。
そして、我が家に招待し、妻とも挨拶された。妻の下の名前と、酒井さんのお母さんの名前が同じということで、縁の深さを感じた。
さて、二人とも音楽好きとのことで、色々、試したのである。その内容は、また後日レポートさせて頂こうと思う。

さて、本題の2つのテーマが私にとって重要課題なので、二人酒を酌み交わしながら切り出した。
今考えれば、陰陽思想の極致の話であったが、印象に残ったのは、ガムを捨ててくれる人がいるからこそ、ガム取りをさせて頂けると彼が言ったことである。びっくら仰天である。

私が、求めていたものは、その一言にあったのである。その考えは、私に広い視野を授けたのである。
この考えこそが、私の心を救う一言であったのである。
非常に感銘を受けたのである。するとどうだろう。私の中で、陰と陽が溢れて来たのである。

普通なら、ガムを捨てる奴は悪い。なぜ、迷惑を掛けるような行為をするのかと考えるのである。
では、その行為をしないよう、注意喚起、ルールの徹底を行おう。これがいわゆる善悪二元論なのである。
ルールを守れない者には、罰則を与え、他の人への教訓とするという考えなのである。

酒井さんが、トイレ清掃をされる意味は、違うのである。
トイレを汚してくれるから、トイレ清掃の喜びが味わえるという考え方なのだ。これが陰陽の考えなのかと、感心したのである。
トイレ清掃をして、人の役に立とうとしてやっておられるのでは無いのである。トイレ清掃という行為そのものを尊ぶのである。

また陰陽で言うならば、この世は、あらゆる人で構成されていて、その人達がいるから成り立つということをことを忘れてはならない。
全てが、関係しあっていて、例えば、病人がいるから、病院があり、犯罪者がいるから警察もいるのである。
皆が、勝者に成りたくても、皆が勝者になると世の中は成り立たないのである。
ということは、勝者の陰にはやはり、敗北者がいるのである。そう考えれば、敗北者は悪いことでは無いのである。
そういう事が理解できれば、あなたがいればこそ私がいるという、感謝が湧いてくるのである。

常に勝利者とならなければならないという考え、結果を出さなければならないという考えは、常に馬でいえば尻を叩かれている
状態で、自分自身を苦しめる事になる。つまり、競争社会こそが、またその意識のある自分こそが、自分自身を苦しめるのである。
あくまでも、良い悪いを言っているのではなく、自分の悩みがどこから来ているのかを理解できるのである。

また、私は元来腸の調子が悪く、すぐ下痢をしていた。それと、いつも腹痛であった。それは、酒井さんから言われるに、脳と腸はフラクタル(自己相似形)そして、繋がっているのであると。私の脳は事を考えるにあたって、今の職業を重荷に感じ、不安や恐怖を常に腸へため込んでいたのが、調子の悪さの原因と思われる。

酒井さんは、以前左手を骨折され、伸びないようになるかも知れない状態であった時、自分の左腕をさっちゃんと名付けられ、そのさっちゃんに、声を実際に出して触れて呼びかけ、さっちゃんは、見事完全とは言えないまでも、伸びるようになったとの事。
それを聞いた私は、自分のお腹を腹筋(ふっきん)からとって、ふっちゃんと命名し、語りかけを行っている。

まず、初めに、ふっちゃんの具合の悪さは、私自身が作ったもの。そのふっちゃんに、ごめんね、ふっちゃん。でも、知恵をくれてありがとうね。いままで頑張ってくれてありがとうね。あなたは、すごいね。とお風呂の中で、声掛けをしている。
また、お腹が重い時は、必ず不安を抱えている時なので、その際は、車の中でふっちゃん、ごめんね。なにか不安を考えてるよ。
教えてくれて有難うねと、撫でながら声を掛けている。
すると、少しづつではあるが、ふっちゃんが軟らかくなってきている。硬く緊張したふっちゃんが、すこしずつリラックスしてきている。
ここで、病気に対する、回答が私に感じられたのである。あくまでも、病気は、自分が原因で呼び寄せていることなのだということだ。

大病を憎み、それを治すことこそ善だという考えは、病気のキーワードでは無いような気がするのである。
つまり、陰陽とフラクタルということで考えれば、例えば人を憎むのも、罪を憎むのも、憎むという観点だけを見れば同じことなのである。
ということは、例えばその憎むという行為そのものが、善悪を問わず、病気を作っているのかも知れない。
ふっちゃんは、そのことを私に教えてくれているのかも知れない。
酒井さんは、善も悪も受け入れた方が楽になりますよと言われるのはそういう事であると、自分で今は納得している。

そして、最近酒井さんは、良く噛んで食べる大切さを言って居られるが、その大切さは、何を意味するのだろうか。
私は、酒井さんから箸置きを頂いた。意味を私なりに考えた。やはり、人が言うからこうなんだという考えでは、本当の学びは無い。
しかし、やってみないと分かりません。私は、その意味を頭で深く追求することなく、やってみた。

これまた、不思議である。新発見である。先日、切り干し大根を食べた。普段何の気にも留めずに食べたのだが、
良く噛んで見ると、すごく美味しいのである。私の場合は、少しずつ口に入れた方が良く噛めるのである。
大根の味ってこういう味なんだ、米ってこういう味なんだと、楽しむことが出来るのである。
いつもは、食事の時間が来るから、食べているだけ、お腹が空くなどという感覚は、腸が悪いことと相まって、今まで感じたことがない。

しかしである。最近お腹が空くのである。食べ物を食べたいと感じるのである。これは新発見である。当たり前の事だと、笑う人もいるだろうが
私にとってはすごいことなのである。
つまり、美味しいと心から感じ、味わうことで、ふっちゃんの調子を良くさせているのかも知れない。
ということは、不味いと感じて不満で食べるより、質素でも美味しいと感じて食べることが、健康食なのではなかろうか。
あれがいい、これが体にいい、この食べ物は体に悪いという考えは、今の私には、必要とは思えないのである。

しかし、美味しいと心から思えるのは、感謝の気持ちが湧くからである。つまり、食べ物を無駄に捨てるような人は、果たして美味しいと良く噛んで食べているのだろうか。
我々は、大地の恵みを頂きそのおかげで生きていくことができるのである。つまり命を頂いているのである。
その命に対し、感謝する。つまり、「ありがとうございます」を食事に伝えることが、命を頂いた我々の礼儀であると感じている。
やはり、キーワードは、良く噛んで食べるという行為で、その行為そのものに価値が見いだせるのである。

最後に、音楽は、私の趣味であるが、沢山の事を今まで教えてくれた。
しかし、これだけは言えるが、音楽の素晴らしさは、その曲自体の価値であるということだと思う。なぜなら、どんな美しい言葉でも、どんな理屈を言っても、その音楽の価値は誰にも伝わらないのであるからだ。

どの音楽に対しても、善悪という判断をするべきではないのである。この音楽は良い、悪いでは無く、その音楽を楽しむということ自体に価値があり、また楽しまれてこそ、その音楽が音楽としての価値になるのである。
これは、当たり前のことだが、それは、先述の良く噛んで食べることと同じなのである。フラクタルなのである。
ということは、何事にも今を感じ、万物の価値を見出せる一つの自己探求としての開発行為の一つが、良く噛んで食べることなのであろう。

以上偉そうなことを書いたが、これから、酒井さんと共に、価値とは何かについて語り合っていこうと考えている。
しかし、このようなことを考える酒井さんは、今までどれだけの、宗教や哲学等を勉強なさったのであろう。
その人生50年の道のりは、絶えず勉強の人生であったろう。その学びに対する、真摯な姿勢は我々見習うべきである。

これからは、心を込めた仕事とは何かを探求すべく、酒井さん、スーハゆうじんさんをはじめ、その価値を見出したいと思っています。
今は、感謝の気持ちでいっぱいです。
長文になりましたが、ありがとうございました。

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2013.10.30 Wednesday  
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