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死への扉

昨日1月17日は家で般若心経を唱えながら、
阪神淡路大震災亡くなられた方のご冥福をお祈りさせていただきました。

それとともに昨日は思わぬ訃報が飛び込んできました。
毎週金曜日の早朝に参加している積極人間の集いという異業種交流会で
いつもお顔を合わせているSさんという80歳の元教員の方が、
朝布団で横になられたまま息絶えておられたとのことでした。

Sとは亡くなられる三日前に会でお会いし、
翌日同年配で被爆者でもあるNさん宅にお伺いした際は、
今ちょうどSさんが帰られたところだということで、
テーブルの上にはSさんのコーヒーカップとケーキ皿が残されたままでした。

NさんはSさんととても懇意な間柄で、
長年付き合ってきた同年配の親友が急逝されたことに
ショックが隠せないご様子でした。

Nさんはパソコンの中にご自分の遺書、希望する戒名、
葬儀の式次第から役割分担まで明記されていて、
私は葬儀の総運営責任者となっています。

今日はNさん宅で葬儀の段取りについての一通りの説明を受け、
パソコン内のそれらファイルのある場所を覚えておき、
Nさん亡き後はそれらを印刷し、
そこに書かれている通りに葬儀を進めるようお願いを受けました。


私も昨年は二度の生命の危機に遭遇し、
死というものが以前よりもはるかに身近に感じられるようになりました。

人間は死ぬ時は裸、何も持っていくことはできない、
死は誰にでもいつか必ず訪れるもの、
死への扉は、いつ自分の目の前に現われるか分からない、
そんなことをより強く意識するようになりました。


人間の魂は永遠です。
人間としての肉体はこの世で生をまっとうするために与えられた
一時の乗り舟のようなものであり、
永遠不滅である生命の本質は、肉体とは別の次元に存在しています。

これはこれまで何度も体外離脱を体験し、
「母の愛」にも書いたように、
母が自らの命を通して私に光り輝く魂の存在を示してくれたので、
深い確信をもって語ることのできるものです。


死とは、仮に与えられた生命の乗り舟を乗り換えるようなもの、
小学生が中学校に上がるようなもの、
学生が学校を卒業し社会人としての第一歩を踏み出すようなものです。

ただ人間として肉体を持って生きている間は、
そこで感じ、学べるものを十分に感じ取り、
過剰な死後の世界への憧れを持たせないために、
「死への扉を通ることは恐ろしいことだ」というイメージを意識の中に
植え付けられているのだと思います。


先日知り合いから「生とは、死とは何ですか?」という質問を受けました。

それに対して私は、人間としての肉体的な生死であるならば、
生とは大きな循環系から小さなひとつの循環系が分離して生まれることであり、
死とは、その小さな循環系が役目を終えて、
大きな循環系に飲み込まれることだと答えました。

ワンネス、すべてはひとつである、
こんなことをスピリチュアルの世界でよく耳にするようになりました。
私もそう思います。

お風呂の中にどっぷりと体を浸かり、
手の指先を少しだけお湯の中からのぞかせると、
それぞれの指先はまったく別のもののように見えますが、
すべての指は大元の肉体から繋がったひとつのものです。

私たち一人一人もその指先のような存在でしょう。
それぞれに独立した個性を持ちながら、
奥の深いところではひとつの大きな生命として繋がり合った存在なのだと思います。


ある時山を落ち葉を踏みしめ、風にそよぐ木の葉の音を聞きながら歩いている時、
山は大きなひとつの生命体であり、大きな命の循環系であることを体で感じました。

私自身もひとつの命の循環系です。
呼吸をし、食べ物を食べ、運動し、排泄し、
日々新陳代謝を繰り返しながら生命を維持しています。

豊かな森の命の循環系に包みこまれ、
自分という生命循環系がいかにちっぽけなものであるのかを感じました。

「私もいつかは死に、土に還り、この森の一構成要素になっていくのか ・・・ 」
そう思った時、
生とは、この大きな循環系からポコッとあぶくのようにあふれ出てきた
ひとつの小さな生命の循環系であり、
死とは、生まれ故郷である大きな循環系に再び還ることをいうんだ ・・・ 、
そんな思いが頭の中にわき上がってきました。


肉体としての生命には始まりと終わりがあります。
けれども生命の本質である魂には始まりも終わりもありません。
永遠の存在です。

もしかして、有限の肉体に宿っていた魂は、
そこでの役目を終えた後は、
再び無限の生命の本質へと還っていくのではないでしょうか。
そしていつかまた時を経て、
輪廻転生という形で肉体に宿るのではないでしょうか。

だから母は肉体としての生をまっとうした後、
大日如来とひとつになれたのだと思います。
何の確証もないのですが、
今キーボードで文字を打っていてそんなことを感じました。


死への扉へ向かうことは恐怖ですが、
煩悩を克服した聖者はそれを超越し、
死の時期をも自らの意志でコントロールすることが可能です。

私が敬愛し、ハンドルネームとして名前をいただいている
パラマハンサ・ヨガナンダは、
1952年3月7日、自らの意志で死期を宣言し、
マハサマディという瞑想状態のまま肉体から魂を分離させました。

下の写真はそのマハサマディに入る1時間前に撮られた写真です。

パラマハンサ・ヨガナンダ

ヨガナンダ師の遺体は、死後数週間まったく腐敗の兆候を見せなかったそうです。

プロフィールのヨガナンダのページにも書いていますが、
1990年、私が初めてアメリカに行った時にロスアンゼルスに降り立ち、
最初に三連泊したホテルがビルトモアホテルという格式ある立派なホテルでした。

後になって気がついたのですが、
そのホテルこそが、最後にヨガナンダ師がマハサマディに入った場所だったのです。


肉体的な生命は一過性のものですが、
人類の歴史が二重らせんを描きながら進化し続けているように、
肉体的生命から発せられた思いは、
途切れることなく永遠に後世へと受け継がれています。

私もヨガナンダ師とは比べものにならないほど小さな存在ですが、
師の遺してくださったものを学び、
死への扉が目の前に開かれる時まで、
与えられた生をまっとうしたいと考えています。

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2011.1.18 Tuesday  
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