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言葉の限界<2>

形のないものと形のあるものとは陰と陽の関係で、
ふたつがお互いに共生しあって成り立っています。

これからは陰の時代、東洋の時代であり『心の時代』です。
目に見えないものに価値の重点が移っていきます。
このことは多くの人が体で感じられていることと思います。

けれども時代が変わり、
形あるものから形のないものに光が当たるようになったとしても、
ふたつの共生関係が変わることがありません。


少し前はスピリチュアルという言葉は一般的ではありませんでした。
今のスピリチュアルにあたる言葉として、
以前は精神世界という言葉で表現されていました。

私は天理教という宗教と出合って三十有余年、
これまで様々な宗教や精神世界の人たちと深い関わりを持ち、
自らの天命として目に見えない世界の真理を追い求めてきました。

その結果、私たちの本質であり、目に見えない真我とも呼ぶべきものとアクセスし、
その真我の望み通りの生き方をするためには、
目に見えないものと対極にある目に見える世界の形を追い求めていくのが
最も早道であると感じるようになりました。

前世療法などでいろんな人の魂との会話をした記録を読むと、
多くの魂が、輪廻転生する中で、肉体という制約を持った世界に生きている方が、
霊的存在でいるよりも様々なことを感じ取ることができ、
大きな霊的進化をすることができると語っています。

本来目に見えない存在である私たちは、
その本来の存在がどういうものであるかをよりリアルに認識するために、
その道具として、対極であり鏡の存在である目に見える肉体、物質というものを
創造したのではないかと思われます。

私たちの本質は目に見えない霊的なものです。
そしてその対極にある目に見えるものは、
霊的な私たちが様々な体験をし、感じ取るために創造した
最高の道具であり教材なのです。

だから形あるものから学び、感じ取ることは私たち人間の望んでいることであり、
大きな役割があるのです。


私がこのホームページでご紹介している『方法』というのは、
ほとんどすべてが形を通して何かを感じ取っていくものです。

トイレ掃除は自らの体を使って下座行させていただくことに意義があります。
体との対話は、目に見えるものとの交流の接点である自分の体に、
目に見える形で感謝の思いを伝える方法です。
スペースクリアリングは、自分の最も身近な外の世界を整えることにより、
鏡の存在である己の内面を整理していきます。

目に見える世界の方法は、簡単で確実です。
誰でもその世界に形から入っていくことができ、
形を積み重ねれば、それに応じて確実に効果も上がっていきます。

形を積み重ね、形を磨き上げていくことによってより深い世界に入っていく、
茶道、華道、武道、 ・・・ 道とつくものも形から入り、心を修練していく世界です。


言葉も文字という形あるものを通して表現する世界です。
日常の言葉づかいを変えることにより、
その人の運命までをも変えることができます。

 

言葉の力とはどういうものなのか、
どういう言葉づかいをすればいいのか、
それを考え、日常の生活に活かしていくのは素晴らしいことであり、
是非実行すべきでしょう。

いい言葉づかいをすればいい人生が導かれる、
これは「正しいこと」と考えても差し支えないものだと思います。

けれども、いい言葉づかいをしている人が、
必ずしもいい人であり、いい人生を送っているかといえばそうではありません。
周りの人たちには丁寧な言葉で対応するものの、
普段から自分の心を偽り、外面がよく、
心の中は荒れ果てているという人を時折見かけます。、

言葉はそれを発する人と周りの人とを繋ぐ道具ですが、
道具はそれを使う人の意志や技量でいくらでも形を加工することが可能です。
道具を見ただけでは、その人の内面を完全に推し量ることはできません。

ただ言葉としての文字情報だけでは内面を判断できなくても、
その言葉を発した時の声の質、微妙な顔の表情から、
その人の内面性や本音がにじみ出てくる場合があります。

それをいかに感じ取るかが人と人とのコミニュケーション術でしょう。


形あるものでは姿勢も同様です。
『教育の基本は立腰(りつよう)にあり』、
腰骨をきちんと立て、背骨を伸ばし、姿勢を正すことが教育の基本であると説いた
哲学者故森信三先生のお言葉は、
今を生きる私たちにこそ必要なものだと感じます。



立腰はきわめて大切なことではありますが、
この立腰ができていなければ絶対にダメかというとそうではありません。
ホーキング博士のように背骨が曲がってしまった人でも、
立派な生き方で大きな業績を残した方がおられるのは事実です。


いい言葉づかい、正しい姿勢、
目に見える世界で望ましいとされることを実践するのはいいことです。
けれどもそれができていなければ絶対にダメということはありません。
またそれができているからそれでいいということでもありません。

目に見えるものはあくまでも道具であり、
それに絶対的な価値を求めることはできません。
目に見えるものの価値は、それをいかに使うのかという『使い方』に
価値があるのです。

結論はいつも同じですね。
主体はあくまでも自分自身であり、
自分の外に価値の主体を置くことから間違いは始まります。

言葉も姿勢も、あるいはトイレ掃除も同じです。
どれも素晴らしい道具ではありますが、
それを金科玉条のように絶対的な目的としてしまっては自分を見失い、
本来の価値をなくしてしまいます。

道具は道具として付き合うのがいいのです。

少し前のページに書きました。
『寄りかからずに寄り添って』、やっぱりこの精神です。

2010.12.22 Wednesday  
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