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信仰<2>

信じて仰ぐから信仰、
上を向いて仰ぐべき存在は、
自分より大きいもの、偉大なものです。

大きくて偉大であるがゆえ、
いったんそれを信じたならば、
自分個人の考えよりも、
そこから与えられる考えや価値観を尊重するのは当然のことです。

それによって短期間に大きな学びや気づきを得たり、
信仰を同じくする者同士が集まって大きな力を発揮する場合があります。

信仰とは思想や宗教だけではなく、
広くは社会主義、共産主義、資本主義といった社会体制、
日本で昔唱えられていた国体護持、
これらもひとつの信仰であると言えます。

信仰の本質は自らの外側に目を向けることにあるのですから、
信仰によって主体性が欠如してしまっても、
それだけでその善悪を判断することはできません。

何かを懸命に信仰する人は、
視野が狭い、偏った考え方をしていると非難されることがあります。

また逆に、何も信仰するものを持たない人に対しては、
利己主義であるとか哲学がなく刹那的であると評する人がいます。

信仰のあるなし以前に、
まずはその人の生き方そのもの、
その信仰の持ち方、関わり方が大切なのです。


信仰においてひとつ怖い点が、
自らが信仰しているものそのものが見えなくなるということです。

私たち日本人は、そのほとんどが島国である日本で生まれ、育ち、
ある一定の価値観を “当たり前” と思い込んで生活しています。

けれどもその自分の心の中に抱いている当たり前が、
万人共通の当たり前ではないことに気づいた時、
初めて自らの生き方、価値観を見直すキッカケを与えられることになります。

たとえば私がインドに行って様々なことに気づいたように、
多くの人が海外旅行に行ってカルチャーショックを受けるのは、
自ら当たり前だと思っていた価値観が、
当たり前ではなかったという事実を体で感じるからです。

私たちが考えることのできる最も深いところは、
生命とは何か、生きるとは、幸せとは何かということでしょう。
このようなことはいくら考えても簡単に結論の出るものではありませんが、
ここを常に自らの原点として持っていたならば、
どんなに周りの環境が変ろうとも、
自分の原点を見失うことなく対処できます。

水の中で暮らす魚が水の存在を意識しないのと同じように、
現在の自分が何を “当たり前” とし、
どこを原点として日々暮らし、考えているのかを探るのは、
とても難しいことです。

難しいですが、それを探るのは価値があり、
いつか必ずやらなければならないことです。
特にこれからはまったく新しい価値観の世界が誕生し、
再び生きる原点を見つめ直すことが求められるようになってきます。
今のうちからそのことを日々意識しておくことが、
長い目で見てよりよく生きていくための最善の方法です。


敬虔なクリスチャン、敬虔な仏教徒、
敬虔なという形容詞を伴って宗教家を表する時は、
そのほとんどの場合誉め言葉です。

けれども敬虔ということとカルト(狂信的)には、
実は紙一重ほどの差しかありません。

敬虔とは、信仰する宗教が世間から認められたものであり、
それを脇目もふらず熱心に信仰しているということでしょう。
そしてカルトとは、同じ熱心でも、信仰する対象が危険思想であったり、
それに価値観を依存してしまい正しい判断力を無くした状態を言うのでしょう

しかしこれは多分に主観的なものであり、
その区別は曖昧です。

今でもイスラム諸国では、
原理主義という熱烈な信仰者が自爆テロを行い、
自らの命を犠牲にして多くの人を殺戮し、
それを聖なる戦い、聖なる行為とし、
死後は最高のポジションに行けると信じられています。

これをカルトだ、危険思想に洗脳された愚かな行為だと
非難することは簡単ですが、
私たちも、また他の国や団体も、
これまで同じようなことを数限りなくくり返してきたという事実を知るべきです。

キリスト教も過去に十字軍の戦いで膨大な異教徒の民を殺し、
領土を奪ってきました。
キリスト教国であり “世界の警察国家” であるアメリカも、
今の国家を築き上げる過程で数多くの先住民を殺してきた過去があります。

一昨年訪れたスリランカは不殺生を旨とする仏教国でありながら
二つの民族が対立しテロや紛争が多発し、
道路の至る所に自動小銃を持った警官が検問のために立っていました。

日本でも戦中は神風特攻隊や人間魚雷といった自爆攻撃があり、
その当時の国や軍に対する忠と義のために命を捧げる行為は、
今でもその意義をどう判断するかは人様々です。


法や論理(ロゴス)といったものを尊ぶのはいいことかもしれませんが、
それが本当に正しいものかどうかを判断するのは困難です。
少なくともそこには絶対性はなく、
その評価は時代や土地、国、民族、気候風土、
様々な要因で変ってくるものです。

論理を第一義に置き、命をその下にあるものと捉えていては、
いつまでたっても争いが止むことはありません。

世界中にある数え切れないほどの “論理” の中で、
自らの論理を最高であると信じ、
それを守るために自らの命をかけて戦う行為は、
今世界各地で行われている紛争を永遠にくり返す種に他ならないのです。


今は文化が変わり少しずつ廃れてきていますが、
日本では昔から忠義というものが何より尊ばれています。

その忠義の中でも特に尊い主君への忠義を守るため、
家臣四十七士が命を投げ打って敵討ちをする赤穂浪士が、
今でも日本人の間で美談として語り継がれています。

しかしこれは本当に美談なのでしょうか。
主君浅野長矩が殿中抜刀したことに非がなかったのかどうか、
それを十分検証したのかという問題は置いておいても、
自らの主君の名誉というものは、
浪士となった四十七士、討ち入られた側の吉良とその家臣たち、
これだけの多くの人間の命よりも重いのでしょうか。

忠義を重んじるのは感動的な美談ですが、
それが命よりも重いとなると、
絶えることのない争いの種という意味において危険思想と言わざる得ません。


世界中の数え切れないほどの論理の中に、
すべて形の異なった、同じく数え切れないほどの美談があります。
その美談を具現化するために、
お互い命をかけて論理を守り、忠義を尽くしていては、
永遠に争いの血が流れるのを止めることはできないのです。

忠臣蔵の浪士は地元では義士として讃えられていますが、
四十七士が義士で忠臣蔵が美談であるならば、
イスラム原理主義者の自爆テロもまた義士であり美談です。
金賢姫元工作員の行った大韓航空機航空機爆破事件も、
北朝鮮という国の体制を守るために行った
尊い義士で美談と言えなくもありません。


「カルト教団」という言葉がありますが、
これにはいつも違和感を覚えます。

カルト性というものは本来教団という宗教組織や
何らかの団体に属するものではなく、
その人個人の心の中にあるものだからです。

ボアするという考えの元に一般の人たちの殺害計画を立て実行した
オウム真理教はカルトの代表のような存在ですが、
世界的大宗教や大国の体制で、
過去同様の無関係の人や非戦闘員に対する殺戮の愚を犯していない
ところはほとんどないはずです。


私たちは誰しも心の中に見えない闇を抱えています。
それ自体は悪いことではありませんが、
それをないと信じることがカルトです。

闇の存在に気づくこと、
それがどのようなものか分からなくても、
何かそういうものを持っているのだということを感じること、
それが『無知の知』であり、
私たち愚かな人間の持ち得る最高の知恵です。

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2010.7.20 Tuesday  
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