音から学ぶ本質論
長年オーディオを趣味としてやってきて、
いい音、いい音楽を再生するにはどうしたらいいのか
そのことをずっと考えて続けてきました。

「いい音」を定義するもののひとつとして「ハイファイ」という言葉があります。

ハイファイとは high fidility 、高忠実度という意味です。
原音を忠実に再生する。
原音になるべく近い音がステレオのスピーカーから出ていれば、
それがハイファイ、いい音であるということです。
それでは何をもって原音に近い、高忠実度であると判断するのでしょうか。

現代オーディオでは、

  ・F特(周波数特性)
    低い音から高い音までクセがなく均等の増幅率で
    再生できる。
  ・ひずみ率
    音がひずみ、割れることなく、原音の波形を保ちながら
    再生できる。
  ・SN比
    雑音が少ないこと。
  ・トランジェント
    立ち上がりの早い音に対して、電気的、機械的な
    追従速度が速いこと。
  ・ワウフラッター
    音の時間軸に対するブレ(速度変化)が少ないこと。

等々、これら尺度の数値が優秀であることをハイファイと呼んでいます。
これが機械で測定可能な「いい音」の基準です。

しかしながら、これら機械的数値が優れていても、
人間の耳には「いい音」として響かない場合があります。
数値的には劣悪な音、音楽でも、
人の胸を打つ感動的なものが存在します。

音には機械では測定できない本質的な何かがあり、
「耳は心の窓」でお話したように心身ともに関係性を持つ聴覚は
そこを敏感に感じ取るのではないかと考えています。

「一事が万事」、音というものを通して、
すべての物事に共通する本質、その現われ方が学べます。


数年前、生まれて初めて大昔のSPレコードの音を耳にし、
そのあまりの生々しい音に驚嘆しました。



音は揺れ、ひずみ、雑音だらけで低い音も高い音もほとんど出ていません。
物理的な測定数値では今どきのAMラジオ以下だと思います。

けれども音の生々しさ、実在感は抜群です。
演奏者の「思い」が聴き手にビンビン伝わってきて、
生の演奏を聴くのとほとんど同様の感動を味わうことができました。

なぜこのような「機械的劣悪な音」が感動を呼び、
原音と極似しているはずの現代オーディオの音にはその感動がないのでしょうか。

SPレコードは、数値的な音質は劣化していますが、
演奏者の奏でる音、音楽が、極めて短い経路で聴き手のに伝わってきます。

原音がマイクロフォンの振動板を揺らし、それが原盤の溝を刻むカッター針の振動となり、
プレスされたSPレコードの溝を針先が捉え、
その微細な振動を大きな金属のラッパで音として増幅する。
その間ほんの数行程、複雑な電気経路はほとんど通りません。

それに対して現代オーディオの音は、
マイクロフォンから入った音がミキシングコンソールに入り、様々な加工をされ、
アナログ信号がデジタル信号に変換され、 ・・・
最後に再びアナログ信号に再変換され、アンプで増幅し、
その電気信号をネットワークで音域別に分類し、
高音用、低音用等の役割分担されたスピーカーで
機械振動となり音が出る、という仕組みです。

このように現代オーディオは極めて多行程、複雑な経路を辿って音を再生しています。

その間に物理的数値はほとんど劣化しなくても、
数値に現れない何か「本質的な部分」が失われてしまうのだと推察しています。

その「本質的な部分」が音の実在感、音楽の感動を呼ぶ、とても大切なところなのです。

本質とは、形は少々悪くとも、シンプル・アンド・ストレート、
簡潔で直接的な方がよく伝えられるということです。


現代オーディオの複雑かつ多行程の信号経路において、
ほんの少し部品を入れ替えたり、細工を施すことによって
音は劇的に変化する場合があります。

一例を挙げると、信号ケーブルと機器を繋ぐ接点の部分に
ほんの少し「接点復活剤」を塗布することでその接点復活剤の材質が
音に大きく現れて音の傾向が大きく変化をします。

1r10,000円の金(きん)入りの接点復活剤があります。
これをひとつの接点に塗布すると、ミクロン単位の金を含んだ被膜ができ、
これが信号経路の一部となり、音は雅(みやび)な光り輝くものへと変化します。

この変化の度合いは、「言われてみれば・・・」というレベルではなく、
「誰が聴いても明らかに・・・」という大きなものです。

現代オーディオの信号経路を辿っていけば、その長さはたぶん数十から数百m、
接点の数は回路基盤の半田付けも含めれば数百から数千という数に登るものと思われます。

その中で、なぜたったひとつミクロン単位の被膜を付加することで
音は劇的に変化をするのか。

接触抵抗が低下するという要因を除けば、信号経路の途中に余分なものを付加することは、
物理的にはマイナス要因にしかならないにもかかわらず、
なぜ音がプラス方向に変化するのか。

この聴感覚で捉えた変化を機械的数値に置き換えることは不可能です。

推察するに、ひとつの特異な部品、部分の刺激によって、
前項で述べた失われた「本質的な部分」の現れ方が変化するのだと思われます。

失われたと思っていた部分があるキッカケで現れる。
本質とは、なくなるものではなく、隠れるものなのではないでしょうか。

より拡大解釈するならば、本物、ニセモノ、価値のあるもの、ないもの、
我々人間の判断にかかわらず、この宇宙の森羅万象すべてのものに
「本質」が含まれている、そういうことなのかもしれません。



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