天才と相対
日本が生んだ世界的ヴァイオリニスト五嶋みどり、
なぜか彼女の演奏はこれまであまり耳にする機会がなかったのですが、
昨日YouTubeでチャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲を聴き、
その峻厳とも言える研ぎ澄まされた音の響きに度肝を抜かれました。



この動画のレビューに「剃刀よりも鋭い 手術ナイフの様なソリストの演奏」
というのがありましたが、その通りだと思います。

このような音楽を奏でられる彼女は、まさに天才と呼ぶにふさわしい存在です。
そう心で強く感じると同時に、天才とは何かということが、
頭の中に言葉としてひらめいてきました。

『天才とは、自ら持つ生命力を極限まで引き出すことのできる人』

天才は、練習を積めば生まれるというものではありません。
激しい練習を含めた日常生活のほとんどすべてをひとつのものに捧げ、
研ぎ澄まされた目標意識と集中力の中から
人間本来が持っている素晴らしい生命力が賦活され、
天才的技量、表現力が身に付いていくのだと思います。

そしてその素晴らしい生命力は、
ほとんどすべて、誰しもが持っているものだと感じます。
けれどそれをなかなか引き出すことができない ・・・ 、
だからこそ、『天才は1%のひらめきと99%の努力』なのです。

そのようなことが、彼女の演奏を聴いていて自然と頭に浮んできました。


天才の特質は、人間の根源である生命力に直結したもの、
だからこそ聴き手の魂に響きます。

魂は、喜びや悲しみといった感情、心のより奥にあるものであり、
そこには一切の妥協も装飾も存在せず、
ただただ峻厳な世界が広がるのみです。

ですから聴き手は真剣による試合に立ち会った感覚で
リラックスして聴くことを許されず、
その代り、魂の震える感覚を味わうことができます。


天才が生命という絶対的存在に直結したものであるならば、
天才が奏でる音楽は、聴き手の好みを超えた、
より絶対的価値のあるものだと言うことができます。


天才五嶋みどりの演奏に刺激を受け、
いろんなクラシック音楽を久し振りに聴いてみたくなりました。

盲目のピアニスト辻井伸行、彼の演奏を聴くのは数年ぶりです。



超絶技巧を要求されるラ・カンパネラは、
右手は2オクターブの広い範囲を動き回り、
それを鍵盤を見ることのできない彼が弾いているというだけで感動ものです。

彼のピアノは穏やかな中にも輝く透明感があり、
たくさんの熱烈なファンがおられます。

ただ残念なことにアンチの方もおられるようで、
彼の他の動画レビユーには、
「技術としては音大生に毛の生えたレベルですね」
といったようなコメントも残されています。


自分個人としては、辻井伸行のピアノは心に響き、
聴いていて幸せな思いに浸れます。
ただしこれは、天才五嶋みどりの絶対的価値に対し、
心や感情といった相対的なものに対する感覚てあり、
聴き手によってそれが合わない、受け入れられないといったことが
あっても仕方ありません。


話が大きく飛びますが、
極めて微少な世界を扱う量子力学では、
通常のスケールの世界とはまったく異なった法則が現れます。

けれどこの世はフラクタル(自己相似形)、
量子力学的真実は、日常ごく身近な世界でも
変わらず通用するものと信じます。
これが東洋的真理です。

量子力学において、光子という素粒子の粒は、
物質でもあり波動でもあるという、
普通の常識では考えられない二面性を持っています。

二つのスリットのある壁に向かって光子を発射すると、
そこを通り抜けた光子は、その奥にあるスクリーンに
波動性を示す干渉縞を作るのです。

詳しくはこの短い解説動画を見てください。



この粒子性と波動性という二つの面が、
絶対的である天才と相対的な感動を呼ぶものという
この二つに対応しているように感じます。

波動は相対的なものであり、干渉し合い、
二つの波が同相で重なれば高め合い、
逆相で重なれば波は打ち消されてしまいます。

テレビやラジオの電波も波であり、
その周波数のあったチャンネルにすれば音や映像を受け取ることができ、
それがズレれば何も入ってきません。

音楽に限らず、ほとんどすべての価値は相対的なものです。
光子がスクリーンに干渉縞を描くように、
辻井伸行のピアノに対して一定割合で評価が分かれるのは当然のことなのです。

さらに言うならば、音楽ファンからすると
絶対的評価を感じる五嶋みどりのヴァイオリンですらも、
クラシック音楽に興味がない人からすると、
「なんだか上手っぽいね、この人・・・」で終わってしまいます。

絶対と相対の両極性を持つこの時空ですが、
突き詰めれば相対が優位です。


光子実験の動画で面白い話が出ていましたね。
人間の意識が波動に影響を与えるという、
“念力”の存在を肯定する実験結果です。

これも音楽の感動に話を結びつけるならば、
辻井伸行のラ・カンパネラの動画で、演奏が終わった後、
ピアノの脇に立ち上がり、少年のようなはにかんだ笑顔とともに、
転ばないように左手でピアノに触れながらぎこちないお辞儀を繰り返します。

そんな様子を見て、たぶん彼のビアノに心惹かれる人たちは、
さらに彼に対する思いを深め、次に彼の演奏を聴いた時には、
より深い思い入れを持って音楽に耳を傾けるようになるのではないかと思います。

これは純粋な音楽的評価からは離れることになるかもしれませんが、
本来音楽的評価とは相対のもの、
そして音、音楽以外のすべてを含めた“総体”のものであり、
個人の抱く思いに正しい間違っているという評価を与えることはできません。


動画の6:08のところ、舞台の袖からステージに再び現れて、
彼は本当に満足そうな笑顔を讃えています。
そしてその後ろで彼をエスコートする女性(お母様かな?)の表情もチラッと映り、
その満面の笑みを見て、胸が熱くなってしまいました。

やっぱり自分にとってはこの感動が最も尊いもの、
絶対も相対も、ましてや他人の評価などまったく関係ないのです。

2018.5.3 Thurseday



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