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聖なるもの<2>

陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる。
大きく膨らんだ風船は限界に達すると破裂し、伸びきったバネは大きな力で縮もうとします。
極端なものは極端であるがゆえ、対極の極端につながる、これはこの時空の真理です。

この世で最も尊い生命を支える根幹である性は、最も尊いものであるがゆえ聖なるものであり、またそれを求める欲求、葛藤が強いがゆえ俗なものともなりえます。

ですから性産業は風俗と呼ばれ、性というものは尊すぎるがゆえその危うさを持ち、“秘め事”となるのです。

 

人間の持つ三大欲求が食欲、睡眠欲、性欲であることはよく知られています。
その中でよく食べ豪快に眠るといった食欲と睡眠欲の旺盛さは、逞しい姿として微笑ましくとらえられますが、強い性欲は「英雄色を好む」といったように生命力の強さといった感じられ認められる一方で、自己の欲求を抑えることのできない理性の低さと否定的にとらえられる面が強くあります。

それは特に危機的な状況でない限り、旺盛な食欲、睡眠欲が他者に危害を与えることがないのに対し、強い性欲は周りの異性を独占し、他の人間の子孫を残したいという本能的欲求を阻害する危険性があるからです。

三大欲求の食欲と睡眠欲は自己の生命を維持したいという生存欲求です。
それに対し性欲は、自らの命ではなく後世へ子孫を残したいという種保存の欲求であり、その本質が大きく異なります。

 

食欲、睡眠欲、性欲、この三大欲求をひとつにまとめる考えが、リチャード・ドーキンスによって提唱された利己的な遺伝子という理論です。

利己的な遺伝子

人間は遺伝子の乗り物にすぎず、その遺伝子を維持し、未来に残すために人間という“生存機械”を作っている。
そのシステムを維持するために生存欲求としての食欲、睡眠欲があり、継続維持していくための性欲があるということです。

つまり人間の本能はひとつであり、自らの遺伝子を守り伝えたいということで、これを“利己的な遺伝子”と呼んでいます。

 

人間の寿命が永遠であるのなら、子孫を残す必要はないでしょう。
けれど肉体生命には限りがあり、それを後世に伝えていかなければなりません。
なので肉体生命に限界を感じた時、自らの遺伝子は継承の危機を感じ、それを残す方向へと働きます。

戦争に赴き、日々生命の危機を感じた際は性的欲求が高まるとのことです。
これは当然のことであり、そこで敵地で激しい性暴力を振るわないため、あるいは兵士の感情を抑えるためにも、当時は従軍慰安婦というのは必要との考え方だったのでしょう。
(これには賛否両論あると思います)

戦争でなくても、例えば危うい吊り橋を渡った際は危険を察して鼓動が高まります。
これはその直後に危険回避の行動を取る必要があると身体が判断し、その準備として心拍数を上げるのです。

これは素敵な異性と接したときの胸の高まりと同種であり、そのような危険な状態の時に出会った異性には、通常時に出会うよりも高い魅力を感じます。

このように生命のあり様と性欲には深い関わりがあり、利己的な遺伝子は様々なリスク管理をしながらその目的を全うしようとします。

 

自分が長年性に関することで深く関心を持っているのが障害者の性に関する問題です。
障害を持つ方の中には寿命が通常より短い方がおられたり、また肉体的生命を十分に全うできないがゆえ不全感を覚え、それがより性的欲求を高めている方が多いのではないかと感じます。

また生涯恋人や配偶者を得ることができず、中には自ら性欲処理することが困難な方もおられ、障害者にとって性、性の自己処理は極めて重大な問題です。

このように障害者は健常者よりも性欲が大きいかもしれないなどと書くと、それは障害者差別だと強烈な批判を浴びせられる可能性があり、普通はなかなかそのような意見を表にすることはできません。
けれどこれはあくまでもひとつの意見であり、またこういったことを嫌悪すること自体が秘め事として課題の本質を隠ぺいする姿勢だと考えます。
そもそも性欲が強いことは恥ずべきことでも何でもありません。

 

性欲を発散する手段がなければ、趣味や芸術など他の分野に意識を向ければいいという意見を以前聞いたことがありますが、人間生命の根源から発せられる欲求は、そんな簡単な綺麗ごとで済まされるものではありません。

性は秘め事であり大っぴらにできない面はありますが、生きる上で極めて重要な課題であり、決して葬り去ったり他の手段で代替できるものではありません。

それを自ら解決できない障害のある方に対しては、本音で真摯に対応していくことが求められます。

下の動画のサムネにもあるように、自ら性処理できない息子の葛藤を見かねた当事者の母親や姉妹が対応し、実際に赤ちゃんを産んでしまったという事例が複数あるそうです。

この動画で障害者お笑い芸人あそどっくさんが語られている、性処理サービスを受けた後、その介助者からギユーッと抱きしめられた時に感じた、
「一人の人になれたような」
というその感動、これがこの問題の本質を表しているように思います。

人はただ寝て食べているだけの動物ではありません。
社会の中で様々な人たちと接触し、異性との愛を交わし、自らの存在意義を感じ取る、これが“人”が“人間”になるということだと考えます。

障害者の性の問題に具体的にどのような解決策があるのかは分かりませんが、一人でも多くの人がこのことを知り、課題に意識を向けることがその一歩になるものと信じます。