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緩急車雲助(久保浩之)さん(広島県呉市)


・・・ 講談ボランティア紀行(1) 冬背広 仮設の孤老笑みたまう ・・・

黒い津波が高い防波堤をやすやすと乗り越え、船も車も住宅も呑み込み、巻込み、街を河を平野を粛々と押し寄せていく。
何回も何度も繰り返されたテレビの映像は、無声映画に似た迫力で、音もなく私の心象風景となり、二万人を越える犠牲者の声なき叫びとともに、私の心に深く焼きつけられた。
その津波のもたらした莫大な瓦礫の山や、建物の残骸と、生き残った罹災者の茫然した表情や、悲嘆にくれる涙の訴えが、マスコミによって繰り返し報道される度に、六十六年前のヒロシマの風景がダブって来た。
なんとしても、東日本大震災の現地に行き、災害にあった方々に会って話し合いたい思いを強く持つようになっていた。
丁度そこへ「宮古へ救援物資を届けるボランティアの募集」チラシが舞い込んだ。老躯なれば足手纏いになるやもしれぬが、ヒロシマの心を届ける「講釈ボランティア」として参加を申し込んでみたところ、快諾を得た。

自家用車で車中泊する四人と帯同は老体には無理ということになり、JRで行くこととなった。
「ヒロシマの心と復興秘話」その演目は、と聞かれ、次の五本を持参することとした。

@「ヒロシマの海の底で」原爆の死者が海底に流され、曝れ頭となり、反核、反戦を唄い 叫び、ゴロゴロ行進する幻想詩=流灯と共に霊魂の鎮魂供養談。
Aヒロシマが原爆砂漠だった一九四六年、闇市の中に突如開店した純音楽喫茶ムシカで、年忘れコンサートが開かれ、集った五十余人の半数が店内に入れず、窓越しにベートーベンの第九を雪の中で聞いた伝説物語。
B昭和二十五年、地元野球球団「カープ」が結成されるも、金がないためユニホームもな い選手も…。連盟会費も滞納、廃団寸前に石本修一監督が、県民、市民に訴え、樽募金や職場を回って選手とともに球団存続のカンパを訴え歩き、市民の球団を守った。
C国民歌手三波春夫と永六輔がかもす、歌に託す人生模様、爆笑の中で熱く歌い、かつ唸り語る「お客さまは神様、仏さま」。
D被爆者が生命を削って書き残してくれた名詩五篇の朗読。

以上、演目五点のうち、第三点目は紙芝居だったが、結局、時間的制約のため、三波春夫外伝と原爆詩の二演目の口演に終始した。
今回のボランティア活動は、冬を迎える罹災者向けに救援物資の無料青空市場との併用だったからだ。
十月一日、赤前小学校の仮設住宅(七十八世帯)では、前日夕刻、宣伝チラシを全戸配布し、さらに当日の午前中にも二度目の配布を地元の方と組んで(二人組、五班)各家を回って聞き取りなど行った上での青空市場と口演だったため、三回の口演中参加者が最も多く、演者の雲助も乗ってのって喋ることができた。
聞き取りと講談の宣伝で仮設住宅を訪問した際、一軒の家で六十代の奥さんと話し込んだ。 
「仮設住宅の会長さんが我が一家を差別するのです。お米などの配給をしてくれない。挨拶しても知らん顔云々」と捲くしたてられるので、愚痴噺を辛抱強く聞いてあげた。
「あゝ喋った!!胸のつかえが晴れたわ。講談には行くよ」と上機嫌。隣近所のつきあい再構築の最中だったのだ。講談を聞きにきて「面白かった。今日は良い日だった。この冬物のスゥエータも頂戴できたし」と笑顔がこぼれた。
冬物の衣類のなかに手織の新品同様の背広上下があった。小柄な老人にすすめたところ
「私は独り者で晴れの場に行くこともない」と最初は遠慮されていたが、よく似合うとすすめたら、着てみて「あゝぴったりだ」とはにかんだ笑みをみせて引き取られた。
講談が済んだら、握手をもとめて帰っていかれた。

緩急車雲助(久保浩之)さん


・・・ 講談ボランティア紀行(2) ベクレルも 知らでヒロシマ 八十路秋 ・・・

こうして七十八世帯の入居しているこの赤前小学校仮設住宅に入居している皆さんが総出?の救援物資=無料青空市が一段落し、いよいよ雲助講談の開演となる。
今回のボランティア行動として宮古市に来て四日目。すでに二回の口演を重ね、今日がラストの三回目である。
無料青空バザーには五十人をこえる方々が一時間くらいの選別で冬物衣類やストーブ、毛布、こ たつなどに加え、米やインスタント麺など食料品を手に、仮設住宅の入口に設けられた集会所(折り畳み椅子三十席)の講釈場に集まった。満席である。  

講釈師雲助の登場と満を持し司会の伊藤氏の開会の辞、雲助の紹介を待ったのだが… 
突然、飛び入りで地元宮古市議の落合氏が登壇。この間の津波被害者の援護策の進み具合の報告が始まった。
その市政報告は具体的で被災者の要求に即したものだった。部外者の私たちにもトータルな要求実現の進展状況、その見通しが身にしみてわかる落語などの人情噺を聞くほどのものだった。
落としどころの笑いもあって聞きほれる、勇気と元気がわいてくる報告だった。こんな市会議員が宮古の言語を絶する災害地で被害者の絶望を希望にかえる地道な活動をなさっておられたのだと、私は一瞬、付焼刃の枕に振る言葉を失った。
ありのままのヒロシマビトの報告をしようと思いなおして壇上=机の前に立った。
そして後の黒板(白板)に、今、現在の心境を託す句を書きなぐった。
  ベクレルも
    知らでヒロシマ
      八十路秋
「アメリカの放射能影響研究所は徹底して原爆放射能の人体に対する影響を隠した。多くの被爆者が火傷、ケロイドが治っても体調を崩して死んでいった事実から放射能の恐ろしさを見てきた。
多くの被爆者は結婚と出産を避け、産まれた子や孫にも被爆の実態を話さなかった。そのことが原発の安全神話と核の傘の下での生活を容認、今回のフクシマの悲劇に繋がっている。
この句は能天気に六十余年間を過ごしてきたヒロシマビトの生き方を自虐的に詠んだ私の句だ」
と苦いマクラを述べ、『三波春夫外伝』と題する講釈に入った。
三波春夫と永六輔が或る老人ホームで語り唄った出会いから二人でさまざまな挫折を乗り越えた人生を振り返って日本人の歌に託した熱い思いを爆笑のなかで語りあげる筋の講談。 
話の中で聴者の方々に『誰か故郷を思わざる』という古い国民歌謡を唄ってもらうシーンなどもあって、四十人余りは楽しく唄ってくださった。
口演後、沢山の方から好評をいただいた。あの、目下、向こう三軒両隣のコミュニティーづくりに悩んでいた奥さんも、背広を受け取って頬笑んだ古老も、固い握手をして別れを惜しんだ。


・・・ 講談ボランティア紀行(3)  秋宮古 “生ましめんかな” 詠むや嗚咽 ・・・

今回の宮古市への災害救援ボランティアへの参加者は、白築美敏、伊藤英敏、綿岡志郎、坂井貞男に雲助の五名が共産党中部地区委員会から派遣され、先行の県委員会・大西理とともに活動した。
雲助が新幹線を乗り継ぎ、宮古に到着したのは、九月二十八日の夕刻。JR山田線沿いに約二`、地区委員会が設置してくれていた宿に入った。
その家は震災後転居された養蚕商家。その大きな民家を借用しもので、一階の十畳の広間には、すでに先着の四人が運び上げた救援物資が積み上げられていた。
宮古駅まで津波が押し寄せ、周辺は水に漬ったが、辺りの家並みは被害をまぬがれていた。夕食と朝食は近くのフードセンターに寄り、共働きで炊事慣れした伊藤、綿岡、坂井の三シェフが腕をふるってくれた。昼食は、弁当もしくは、地区の主婦による炊き出しだった。
出陣前夜、夕食前に雲助の声ならしを兼ね「お客様は仏さま」を一席聴いてもらったところ、ラストの「君が代」の歌い方についての条りは省略すべし、ということになり、テーマの分散を防ぐ上で、伊藤、綿岡氏らの意見を容れた。
一日目は、愛宕小学校の仮設団地で救援物資を届ける青空無料市場と講談。愛宕地区は宮古駅に近い準繁華街、堤防を軽く乗り越えた津波に街の殆んどが攫われた地区である。
かつての隣近所同士の絆が残っている仮設団地で、大西理氏が作成したチラシを午前中に全戸(四十四世帯)に配っての青空無料市場と講談の会。
高台の団地からは、すぐ眼下に宮古湾が見える。その広場でのバザーの救援物資の捌け具合はまずまず。いよいよ三波春夫異聞の口演ということになる。「私らはナマの講談は初めて聞ぐ。どんなものか」とひそひそ話が客席から聞こえてくる。
「赤旗」記者が芸名の由来や今回の決意など、取材でつきまとう。
そんなところへ、縁あって釜石から井上淑子さんが知人一人をともなって六十キロの遠路を馳せ参じてくださる。初対面の方で、今回の災害では縁者が亡くなり、親友を三人失ったという。
講談の感想を聴くと、「大変面白く、みんなで唄うシーンや声色などもあり、今の罹災者、特に老人たちにはピッタリだった。遠くヒロシマから来て、『生ましめんかな』の朗読など、福島原発の惨にかかわる生き方を訴えてくださったのは、今の私たちにとって身にしみる話だった」と語ってくださった。
帰呉後のお礼の電話にも、「救援物資と同時にヒロシマの心を届けようとする優れた企画だった」と、繰り返しての評価を述べられた。
三十日、二日目は近内地区の仮設住宅で活動。雨模様だったので、集会所での活動に終始して歓んでもらった。こうして今回の救援ボランティアでは、三箇所の仮設に住む被災世帯、百人余に物資の差し入れ、巷談の聴聞を行うことができた。


・・・ 講談ボランティア紀行(4) 防潮堤 むなし田老の 曼珠沙華 ・・・

帰路、先発の大西氏に頼み、過去二百年ばかり間、三回も大津波に集落、街の全滅にちかい被害に泣いた田老地区の大防潮堤と、今回、それを乗り越えた十八メートルの津波が街を(じゅうりん)、形跡もなくなった水浸しの住居跡を堤防の上から眺めた。


    (震災直後の田老地区)

自然と人間のとてつもない闘いの歴史を、青い海原、白波、風音の中で考えた。この列島を襲った大震災、その天災と人災の責任追及と具体的復旧策も、以後八カ月も経たのに、未だ社会的政治的に整理され、明示されていない。
その中で被災者は無論、その支援に手を貸す私どもも、確かな展望にたって被災者に希望を告げ、現実を共に乗り越える確かな手立てを持ち得ていない。
ふと六十六年前の敗戦直後のヒロシマと、わが郷土呉市に働き生きてきた日々の暮らしの情景がよみがえった。敗戦と戦災焼け野原の虚脱と飢餓の中での暮らし、援助してくれるもの皆無の数年間の暮らし。
まだ東北の、この田老の生き残った人々は、当時の暮らしよりはましな生活ができている。そのことを伝え、生きていることの素晴らしさを伝え訴え語らねばならぬと改めて思った。どんなにつらくても、今生きていることは素晴らしいと…。
田老の生き残ることのできた方々四百世帯が今暮らしている大仮設住宅団地が、向新田の「グリーンピア三陸みやこ」の台地に建設されている。商店街もできつつあるとのことだった。
その団地横の道を海岸に降りる曲がりくねった道を通るとき、曼珠沙華が群生する一角があった。リアス式海岸の特徴通り断崖絶壁の小さな入江。そこは六十メートルの津波が押し寄せた場所でもあり、その恐ろしさを語る場所だった。  
「想定外」という言葉が今回の災害では多く使われ、責任のがれの前置詞となっている。

五月、雲助はヒロシマ原爆死没者追悼祈念館で被爆手記朗読会の司会をした。
最後に北陸の或る中学校の生徒たち八十余名を前に「福島原発での災害は明らかな人災だった。想定外の災害は許されないのが原発である。原発・核エネルギーは事故が起きたら取り返しはつかない放射能の拡散で何万年もの障害が続く。開発利用は絶対に許されないものです」と結んで終えた。
帰りがけに二人の生徒が私を呼びとめ、質問の形で「そんな危険な、絶対使ってはならない原爆、原発を許した責任は貴方にはないのですか」と抗議の発言をしてきた。
 答えに窮した私はその場を「ずうっと反対をして運動をしてきたが、止めることができなかった。若い君たちにその運動をひきついでもらいたいからあの発言をさせてもらった」と言い逃れた。
フクシマ原発事故とどう向き合って生きるかという課題に、今回の「奥の細道」行脚ではふれる機会がなく、僅かに“生ましめんかな”の朗読にとどまった。
静かに津波によって流されたガレキの山と爪跡を大防潮堤の上から眺めながら、その目を転じて曼珠沙華のあまりに鮮やかな朱色にヒロシマ、放射能の危機にうとい活動に自責の念に打たれたオチをこじつけ、救援物資とヒロシマ(こう)談を届ける救援ボランティアの報告記とする次第。

2011.11.19 Saturday  
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