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思いひとつ

今年平成30年は戌(いぬ)年、
来年平成31年は十二支の最後亥(いのしし)年で己亥(つちのとい)、
自分が生まれた昭和34年と同じです。

来年はいよいよ還暦を迎えますが、
お陰様でこれまで一度も大きな病気をしたことがありません。
今年は正月明けに39.4度の熱を出して寝こみましたが、
いつものように医者に行くことも薬を飲むこともなく乗り切りました。

今回もたぶんそうだったと思いますが、
過去インフルエンザらしき症状にかったことはあります。
また腎臓結石で強烈な痛みを感じたり、
突発性難聴で右耳の聴力を完全に失ったこともありましたが、
いずれも薬抜きで自力で治しました。

日本で医者にかかるのは、
歯科と縫うほどの大怪我をした時に行く整形外科だけです。

整形外科も、縫ってもらった後は薬もほとんど飲まず、
抜糸も自分で行ってきました。

こんなことを人様に勧めるわけではありませんが、
それでもこうやって日々元気に生きていられるのは、
運と体力に恵まれたお陰だと感謝しています。


とは言え、身体の調子が100%万全という訳ではなく、
今最も悩んでいるのが、
ここ数年前から調子が悪い左前歯です。

このことは以前にもどこかのページに書いたことがあると思います。
四十年近く前、バイク事故で車の横っ腹にぶつかり、
その時全身が路面にたたきつけられ、右前歯の半分が欠け、
左前歯が根元から折れ、差し歯になってしまいました。

それでも当初は生活にまったく支障がなく、
食べることも何不自由なく過ごしていましたが、
数年前から左前歯の調子が悪くなり、
たびたびぐらつくようになりました。

三年前はインド滞在中に前歯が取れ、
いくつもの歯科医を回ったもののいい治療を受けることができず、
滞在期間の半分以上を前歯が片方ないというみっともない状態で
過ごさざるえませんでした。
今振り返っても辛い思い出です。

もう左前歯を支える土台がダメになっていて、
少しの衝撃で前歯が外れてしまいます。

先月まで三ヶ月間茨城県に滞在していた時も
たびたび前歯の状態が悪くなり、
いつも通っている山ア歯科医院に行くことができず、
百円ショップでエポキシ系接着剤を買ってきて、
自分で前歯を接着するという荒治療をしていました。

その後きちんと治してもらってもやはり数日でダメになり、
今もまたエポキシ接着の状態で、
もうほとんど一日も経たずぐらつく状態になっています。


四十年前の事故は相手側の100%過失による事故で、
治療費の他三万円の慰謝料をもらいましたが、
あの時の怪我の痛み、今まで受けてきた歯の後遺症の苦しみを考えると、
本当は三百万円もらっても足らないほどです。

前歯がないのは極めてみっともないので、
ぐらつく状態でもなんとか前歯を維持しようと努力し、
食べ物を噛む時は不自然な食べ方で
前歯に圧力がかからないよう心がけています。

また今の差し歯は脆弱な土台に乗るように
内側に向かって延びた形状をしていて、
口の中でかなりの違和感があり、
ぐらつくことと相まって、数分おきに前歯の状態を意識してしまいます。

これからどうなるのか、
それを考えると暗澹たる思いです。


怪我と言えば、懇意にしている九州小倉の整形外科医
平野医師が、今月初めに足の骨を折り、顔面も強打するという
大怪我をされました。

平野医師は統合医療という理想の医療を志し、
特に最近は最先端の幅広いネットワークを持ち、
新たな提言を次々としておられます。

そんな平野医師ですので、
人生初めての骨折、大怪我を自らの身体で体験し、
そこから得た気づきもまたとても大きなものがあるようです。

ここにそんな思いの一端が述べられています。
赤裸々な告白に、自らの経験を糧にしたいという強い思いを感じます。
  <初めての骨折・手術体験記(6)?大いなる気づき>


友人が詳細に綴った怪我への思いを読み、
それと自分の歯の悩みを比較し、
自分はとてもちっぽけなことで悩んでいるなと、
あらためて感じさせてもらうことができました。

怪我に限らず、自分の身に起こったことは、
すべて自分の思いひとつです。

これまでの人生経験から、
起こってきたことはすべて必然だと確信できます。

それにどんな意味があるのか、それは分かりません。
またもし意味があるとすれば、
その意味を正しく解くか間違って解くか、
解き方に正解、不正解があるということになり、
それはおかしなことだと感じます。

ですから、起こったことは必然でも、
そこには何の意味もなく、
それを自分なりにどの様に解釈をするのか、
そこから価値が生じると考えるべきでしょう。


だとしたら、今の自分のぐらつく前歯に対する解釈は、
決して明るい結果を生まない解釈なのだと気づきました。

平野医師の大怪我をはじめ、
周りでは自分よりももっともっと大きな苦しみを抱えた人がたくさんおられます。

人間は、誰しも自分の思いには敏感でも、
他人の思いに対しては、分かっているつもりでも、
ついつい鈍い反応しかできなくなるものです。

これまでお陰様でとても健康な状態で過ごしてきて、
自分の身体の不調に対して敏感になり過ぎたようです。


それと考える主体を自分の心の中にあるエゴから、
歯そのものに移す必要があると感じました。

車の横っ腹にぶつかり、
バイクから飛び出した身体が宙を舞い、
全身をコンクリートにぶつけた時、
歯が折れてくれたお陰で唇や鼻は怪我をしなくてすみました。

そう考えたなら、折れた歯のことに悩むのではなく、
己の身を挺して他のところを守ってくれた歯には感謝するしかないのです。

そしてそのわずかばかり残った歯の土台で、
しっかりと差し歯を支え。
これまで四十年近く、いろんなものを噛み、
美味しいご馳走をたくさん食べさせてくれた、
そのことは本当に有り難いことだと気がつくことができました。


ここで少し話が横道に逸れます。
数日前、広島の映画館で「この世界の片隅に」を観てきました。



一昨年の公開当初からとても大きな話題となった映画で、
地元広島、呉を舞台とし、
たまたまこの8月6日の原爆記念日に、
声の主役を演じたのん(能年玲奈)を間近で見たこともあり、
何かの縁を感じ、広島での公開最終日に映画館に足を運びました。

映画の中でなじみのある風景や地名が随所に現れ、
主人公すずの暮らしがとても身近に感じ、
やはり涙なくして観ることはできませんでした。

原爆が投下された瞬間、
すずのいる呉からも大きなキノコ雲が見えてきました。


ここ広島で、これまで数多くの被爆者の方たちと接してきました。
そしてその多くの方たちがすでに他界しています。
その方たちのことを思い出し、
映画であのキノコ雲が現れた瞬間、
小野春子さん、有本さんは広島駅におられたんだな・・・、
中村さん、荒谷さんはそのすぐ北側、
東練兵場で草取りをしていたと言われたなあ・・・、
先日一緒に式典に参加した今浦瑛子さん、その弟さんは、
比治山の麓におられたんだ・・・。

また当日広島近郊におられた方たちからは、
遠くに雲が立上るのが見えたという話を何度も聞かせていただきました。

そんなことを走馬燈のように思い出し、
これまで原爆資料館に行って感じるのとは違う、
また別のリアリティーをもって原爆投下の現実というものを感じました。

そして映画のラストの方で、
爆弾によって右手をなくしたすずがその右手のことを思い、
「もんぺを縫ってくれた右手」、
「鉛筆を持ち、スケッチブックに絵を描いてくれた右手」 ・・・
みたいな言葉が次々と積み重なる場面がありました。


このたびそのシーンを思い出し、
自分の前歯がどれだけのことをしてくれたのか、
楽しい思い出を作ってくれたのか、
そんな数々のことが頭の中を駆け巡り、
あの時のすずと同様、胸の中が熱くなってきました。

そして熱くなると同時に、
これまで悩みの種だった前歯のことが、
逆にとても愛おしく感じるようになりました。

これはやはり平野医師の怪我と同様、
自分自身の身体で体験してみなければ分からない感覚です。


十数年前、過去数え切れないほどの病魔と闘ってこられ、
その当時も脳の疾患の影響で、半身が不自由な男性とお会いしました。

その男性に、
「今半身が不自由なのは、
脳の中でその部分を司るところかの血管が切れたからですね。
けどその脳の部分だってひとつの生命と意志を持ち、
本当はそこで血管を破裂させたいなんて思っていなかったはずですよ。
けれどもし破裂した箇所がそこではなく、
心臓の動きを司るところだったとしたら、今頃は生きていないでしょうね。
ですから障害を負った脳のその箇所は、
あなたの生命を守るため、己を犠牲にして守ってくれたんですよね。
だとしたら、その切れた血管、
障害を負った脳の箇所にお礼を言って感謝すべきですね」
と、こんなことをお話ししました。

するとその男性は、
「これまで一度もそんなふうに考えたことはありませんでした・・・」
と目を輝かせながらこたえてくれました。


今、その時彼に与えた言葉を、
己の体を通し、自ら噛みしめています。

その当時も左腕の骨折を通し、
折れた左腕を「サッちゃん」と名付け、
不思議な体験で、身体のひとつひとつの器官の持つ
生命と意志というものを実感していました。
  <身体との対話>

ですからその時そういう言葉が出たのですが、
今再び、今度は前歯を通し、
より深く感じ取る機会が来たのだと解釈しています。


前歯に感謝の思いを捧げ、
左腕骨折のサッちゃんの時と同じような奇跡が現れるでしょうか。

もしかしたら何かあるかもしれないし、ないかもしれません。
けれどそれはまったくどうでもいい話です。

『愛とは見返りを求めないもの』
それと同じく、感謝もまた見返りを求めません。
もし求めたならば、それは感謝ではありません。

感謝の思いは、その思いを持つた時点ですべてが完結しています。
そんなことをこのたび前歯を通して感じ取らせてもらいました。

人間の幸不幸、それは思いひとつ、
そこに一歩近づけた気がします。

2018.8.27 Monday
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