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2018年11月23日 ・・・ さくらんぼ計算

今から半世紀ほど前、まだ小学生だった頃、
これまで何度も書いてきたように、とにかく勉強が嫌いな劣等生で、
学校ではいつも先生に叱られる回数クラスNo.1でした。

当然成績も最下層でしたが、
なぜか算数だけはよくできて、
授業はまったく聴かなくても、テストはそこそこの成績を取っていました。

特に計算のスピードは断トツに速く、
テストも誰よりも速く終わらすと同時に勢いよく手を上げて、
「先生!テスト用紙の裏にマンガを描いてもいいですか?」
と先生に尋ね、くだらないマンガをシコシコと描くのが楽しみでした。

今考えると、数に対する量的、質的感覚が優れていたのだろうと思います。
ですから数学というよりも算数が好きなタイプです。

勉強嫌いで暗記などはしないので、
中学、高校で習う公式も、
自分で十分理解したものしか頭に入れず、
それの応用公式は、テストの最中に、
その基本公式から導き出すという悠長なことをやっていました。

例えば三角関数の加法定理などはしっかり理解して覚えていて、
その他倍角とか三倍角とか、
諸々の定理は毎回計算して出すみたいな感じです。

とは言え、算数・数学は道具学問です。
道具は使いこなせなければ意味がありません。

複雑な方程式を解く時に、
手の指を使って足し算をしたり、
九九を計算で導いたりしていたら、
それより高度な数学問題は最後まで解くことはできません。


算数・数学に限らず、
最初は物事の成り立ち、理屈を覚えることは大切です。
けれどそれらを使いこなすには、
理屈抜きで解が導かれるようになることが必要です。
特に道具学問ではそれは必須項目です。

体を使って何かをする時、
人体を構成する数多ある筋肉を絶妙のバランスでもって動かします。
箸ひとつ使うのでも、
それをロボットにさせようと思うと、
極めて微妙な動作プログラムが必要でしょう。

毎日両目でいろんなものを見ていますが、
視線の先にあるものにピントを合わせるのは、
本当は大変な作業です。
長年目が見えなかった人の目が見えるようになった時、
まず最初はその随時ピントを合わせるという動作に苦労するそうです。

まずは理屈を理解することが大切です。
そして次には、理屈抜きでそれを使いこなせるようにならなければなりません。
理屈抜きで使いこなせるようになったなら、
使っている途中で理屈が頭に上ってくることはありません。
つまり無意識レベルです。
その上で、次のステップの理解への入り口があります。

また逆に、使いこなせるようになって、
あらためてその理屈が理解できるという面もあります。


インドは、ゼロという概念を発見した国としても知られるように、
民族的に算数・数学に対して高い理解力と感性を持っています。

インドの子どもたちと接していて、
男の子、女の子どちらも、
数字や機械に対して優れた感覚を持っていることに驚かされます。

その要因のひとつが、インドの学校教育の方法にあると考えます。
これは町の文具屋で買った算数テキストです。



こんなふうに、日本の九の段までのかけ算暗記と同じように、
20×20、二十の段までのかけ算を暗記してしまうのです。

こういった理屈抜きで覚える高い基礎的習熟能力があるがゆえ、
さらに高い数学的概念も頭に入るのだと思われます。


理屈を覚える、
それを完全に暗記させる、
または暗記するぐらいに習熟させる、
これは順序であり、比較して優劣をつけるものではありません。

人によって理解や能力には差があり、
それを一律、同じ基準で見る事はできないのです。


もう三十年以上前、
公文教育研究会に勤めていた時、
実際自分でも教室を持って子どもたちに算数・数学を指導していました。

公文はご存じのように基礎を徹底的に習熟させる方法で、
最初はかなり易しいところから学習をスタートし、
そこで培った基礎力を土台に学校で習っている内容よりも
先に進んでいくという学習法です。

ある時教室に、数学が苦手な男の子が入会してきて、
最初に「学力診断テスト」というのを行うと、
小学校一年生相当の足し算から学習を始めるのが
適切であるという結果が出ました。
これはよくあることで、特に際立って低い結果ということではありません。

そしてほぼ同時期に入会してきた女の子は特に頭の回転が速い子で、
その子のテストは、小学三年生相当のところからスタート
という結果が出てきました。
これは際だって高い結果です。

つまり中二の子よりも、
小三の子の方が算数力が優れているという結果です。

公文という塾の現場で子どもを見ていると、
このように子どもによって大きな学力差があることにとても驚かされました。
けれどこれが現実です。
学校の先生は、こんなに学力差のある子どもたちを、
同年齢だというだけで一律の内容を教えるのは、
本当に大変なことだろうと思います。

けれどいくら大変でも、
そこは最大限の配慮をしなければなりません。

大昔、戦時中の軍隊は、
『足に靴を合わせるのではなく、靴に足を合わせろ』
などという暴論がまかり通っていたそうですが、
今はそのようなことは許されません。

子どもたち一人一人の持つ可能性を最大限に伸ばす、
これが教育の基本であるべきであり、
もしそれができないのであれば、
子どもが真面目に学校に通う意義というのは薄れるでしょう。


つい最近、さくらんぼ計算というのが話題になり、
そういった方法があるということを初めて知りました。
さくらんぼ計算というのはこのようなものです。




つまり、9+4で、9に1を足すと10になるので、
4を1と3に分解し、
それをさくらんぼの様に分けて考え、
それを式の中でも示さなければならないというものです。

なるほど、理屈では当然よく分かります。
けれど大人はこんなことをいちいち考えません。
考えなくても習熟し、暗記しているから答えがすぐに出るのです。

子どもでも同様でしょう。
このようにしなければ分からない子もいれば、
こういった理屈を考える、その段階を通り過ぎた子もまたいるはずです。

これを一律こう考えなければいけない、
それを式として表さなければいけないというのは、
子どもの理解、習熟の状態を無視した横暴だと思います。
横暴が言い過ぎだとしたら、
子どもの能力や可能性の芽を摘む行為とでも言えばいいのでしょうか。

また本来こういった基本的な計算は、
それを習った学年の段階で、
十分習熟するまで使いこなし、計算練習をすることが望ましいのですが、
今の教育の場ではそれが難しいのでしょう。
ですから「理屈重視」になる傾向があるのだと考えられます。

まただからこそ、学年が上がるにつれて“落ちこぼれ”る子が増えてきます。
“落ちこぼれ” か “落ちこぼし” か、
これも考えさせれらるところです。


学校現場で何十人の子どもたちを一斉に指導するのは大変なことです。
それを実践している先生を安易に批判したくはありませんが、
いくら一斉指導の場でも、
もう少し一人一人の発達の状態に合わせた指導というものが
あるのではないでしょうか。

「さくらんぼ計算」をしていないからといって
正しい答えに減点をすることが、
どの様な教育効果を生むのでしょうか。
はなはだ疑問です。


本音を言わせていただくなら、
自分は公文という、子どもたち各自の能力に合った教材を、
指導ではなく、自学自習、自らの力を使って一人で解き進むという
学習の場に携わっていたので、
同年齢、異学力、異能力の大勢の子どもたちに、
同じ内容のものを一斉指導するということに大いに限界を感じます。

最近はいじめや不登校のことが大きな社会問題になり、
昔ほどは学校に対して絶対という意識がなくなり、
“学校に通わない”という選択肢がさほど特異ではなくなっています。

やはり他の様々な社会制度と同様に、
昔からの学校教育制度というものも、
制度疲労を起しているのは間違いありません。

教育の基本は学校ではなく家庭、個人のものだと感じます。

最近知ったさくらんぼ計算のことで、
再び学校教育のことを考え直させられました。
ネットの意見を見ると、
さくらんぼ計算を強制するやり方には批判的なものが多いようで、
その点は安堵します。


教育は、未来の明るい日本、世界を築く大切な礎(いしずえ)です。
これからも教育のあり方を真剣に考えていきたいと思います。

2018.11.23 Friday  
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