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2016年3月9日 ・・・ 音読、朗読<2>

以前公文という子どもを中心とした教育の会社に勤めていた時、
親御さんに向け、子どもたちに本を読み聞かせをする大切さを
繰り返しお話しました。
幼い頃から本を読み聞かせしてもらった子どもは読書の楽しさを体で覚え、
その後も継続して一人で本を読む習慣が身につきやすくなります。

また子どもの言語能力を高めるには、
最も身近な親、家族がきちんとした言葉で子どもに話しかけることが大切です。
「ご飯ですよ」、「着替えなさい」、
ぶっきらぼうに短い言葉だけを投げかけるのではなく、
「○○だから○○した方がいいわよ」、「○○は○○だから○○なのね」、
条件や理由を明示した長い文節で会話をする家庭で育った子どもは、
自然と言語能力も高まります。

読書習慣が身につき、高い読解力、国語力が得られれば、
学校での国語の成績もよくなります。
けれど国語はテストの点数にそんなに差が付く教科ではありません。
0点が取りにくい代わりに百点満点を取ることも難しく、
点数のバラツキを示す標準偏差という数字は、
主要教科の中で国語も最も小さくなるのが普通です。

日本人なら誰しもが難なく話し、使いこなすことのできる日本語ですが、
この日本語の力は単なる国語力に留まらず、
様々な方面に大きな影響を与えます。

大学入試の成績と、その後入学してから卒業までの成績の相関性を調べると、
入学試験で国語の点数の高い生徒が、
その後四年間の成績がよいという調査結果があります。

国語力は、その子、その人の学習習慣、生活習慣の形成というものに
深い関係があります。


公文にいた時、優秀な幼児ばかりが集まる大会に参加したことがあります。
小学校入学前の幼児で、中学校で習う内容以上のものを学習する
極めて優秀な子どもたちばかりの大会です。

そこでは数学の優秀児と国語の優秀児がそれぞれ別の部屋に分かれていて、
大人用の大きなテーブルに向かい、一心に数学や国語のプリントを解いていました。

どちらの部屋も可愛いちびっ子たちがプリントに向かって
ペンを走らせる音が響いていたのですが、
そのプリントに向かう様子は、
数学と国語の優秀児とでは大きな違いが見られました。

数学の優秀児は処理能力が高く、
いったんプリントに目を落とすとすごいスピードでペンを走らせるのですが、
その集中力は長く続かず、すぐによそ見をしたり、
近くにいるお母さんに話しかけたり、足をばたつかせたり、
とにかく落ち着きがないのです。

それに対して国語の優秀児はとても大人びており、
ゆったりとした動作は幼児とは思えないほどの落ち着きを感じさせ、
プリントを一枚一枚めくる所作からして
数学の優秀児とは全く異なる風情のようなものを感じました。

国語力、読解力というのは学習習慣、生活習慣に大きく影響し、
能力の幅を広げると何度も聞きかされ、自らも口にしてきたのですが、
その時はそれを目の当たりにした思いでした。


これは推察の域を出ないことですが、
国語力は学習習慣、生活習慣の延長としてEQ、心の知能指数にも
大きな関わりがあるように感じます。

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ただ足るを知る、今この瞬間を喜びや感謝の思いとともに生きる、
そんな満ち足りた暮らしをしている人は、
数学力、処理能力というよりも、
高い読解力やその国の文化としての国語力が素養、教養を身に付ける素地として
あるような気がします。
あくまでイメージですが。

今思いつきましたが、
人間の体と食べ物との関係を考えてみると、
数学力や処理能力というのは、
いかに速くたくさん食べ物を食べて消化できるかという能力のようなものです。
これは早く体を大きくするためには必要ですが、
これだけではいつか健康を害してしまいます。

それに対して読解力、国語力というのは、
しっかりと食べ物を噛み砕き、
口の中で唾液を出して胃や腸に無理なく食べ物を送り込む能力に
相当するように感じます。

これはどちらだけが大切ということではありませんが、
やはりベースとなるのは入り口にあって
よく噛み砕き咀嚼するための読解力、国語力でしょう。

崩壊寸前まで爛熟した文明の中で暮らす現代人にとっては、
のんびりと本を読んだり音読、朗読するよりも、
ひとつでも多くの数学や物理の公式を覚え、パソコンスキルを身に付けた方が
物質的豊かさを得やすいと考えがちですが、
それだけでは心の幸せは手に入りません。

文明を高め、発展させていくものと、
それを支えるベースとなるもの、
これは真反対の対極するものではありませんが、
上に向かって伸びるものと横に向かって裾野を広げるものであり、
90度ベクトル(向き)が異なります。

ベースを広げずに高さばかりを求めると、
木でも塔でもいつか必ず倒れてしまいます。
さらなる発展を望むのであれば、
それが非効率的であろうとも、時間が多少かかろうとも、
その土台となるものをしっかりと築く、
それが自国の言語、文化を守るための国語力であり、
音読、朗読というものがそれを象徴しているように感じます。


これは日本だけの問題ではありません。
伸びゆくアジアの国々では、
欧米の先進国に負けじとばかり、
英語教育、工業発展に力を入れ、
その国の文化や伝統のみならず、言語までをも捨て去ろうとしています。

自分が最も親しいインドでも、
幼い頃から英語で授業をするイングリッシュ・ミディアムの学校に通い、
食事の仕方も西洋式、言語もその地域の言葉がまともに喋れないという
子どもが確実に増えています。

IT大国インドの発展は目覚ましく、
効率からすればその方が望ましいのでしょうが、
昔からの文化や伝統、言語を捨ててしまった上に成り立つ経済的豊かさで、
はたして真の幸せや人々の笑顔が得られるのか、
はなはだ疑問です。


音読、朗読、それを読み聞かせてもらうことの他のメリットのひとつは、
それが能動的なものであるということとともに、
そこにイメージをする余地が残されているということです。

今は情報が泉から湧き出る水の如くあふれていて、
その情報を右から左へ捌くだけで精一杯であり、
本当に大切なものをしっかりと噛み砕いて身に付ける余裕はなかなかありません。

また通り過ぎて行く情報が多すぎるゆえ、
それらに対してはほとんど受け身になってしまい、
自らが主体的に関わるという機会も少なくなっています。

だからこそ、己の口を通して言語を発する音読、朗読が価値があり、
またそれを聞く方も、言葉のみを頼りにし、
そこに自らでイメージの世界を広げていかなければならず、
そこに非現代的とも言える、
ゆったりと語る読み聞かせ、語り聞かせの価値があります。

二昔ぐらい前までは紙芝居というのが学校や街角、集会でよく見られていて、
紙に描かれた絵を元に自らの想像をふくらませていくことは、
テレビのアニメや劇とはまた違う面白さがあったものです。

与えてもらう情報は多ければ多いほどいいというものではありません。
情報を受けた人が想像する余地を残し、
その想像が素晴らしいものとなるようなキッカケを与えること、
そこに価値があります。

ピカソの抽象画などはまさにそうですが、
ほとんどの芸術作品はその “余地” に大きな価値が存在します。


英語を音読していて思うのは、
音読は英語に慣れ親しみ、英語感覚を養うのに最適の方法だということとともに、
口に出して音読しながら、
時折耳から聞くことも平行して行うとより効果が高まるということです。

何度も繰り返し同じ英文を音読していると、
その英文が体に染みこむように入り、
どんどんと自然にその英文が口をついて出てくるようになります。

そしてその英文がしっかりと馴染んだ後、
今度はそれをCD等を使って耳から入れると、
またさらにその英文が深く体に馴染んでくるのですが、
その染み込み方が、音読を繰り返してきた時のものとは違うのです。

音読を繰り返していくと、どんどんどんどん読むスピードが速くなっていきます。
それはまるで後ろから大きな力で押されるような感じです。

ところが耳からその文章を入れた後は、
今度は前から何かに引っ張られるように、
まるで無意識にとでも言えるような軽やかに口が動いてくるのです。
この感覚の違いはとても明瞭です。

これややはり目、脳、口といったルートを通る音読と、
耳と脳を直結するヒヤリングとでは刺激される脳の言語分野に
違いがあるからなのでしょう。

目、耳、口、受動的なものと能動的なもの、
様々な器官、方法を通し、バランスよく物事に関わることが、
大きな可能性を拓く鍵であると感じます。


まったく思いつくままに書いたので支離滅裂になってしまいましたが、
ハッキリ言って今は流行らない音読、朗読ですが、
そういった時代の流れとともに滅び行くもの中にこそ、
大切にしていかなければならない貴重な幸せの種があるような気がします。

これはとても残念なことですが、
生き急いでいる現代人には心しなければならない大切な事です。
温故知新、古きものの中にこそ新しきものを活かす知恵があります。

2016.3.9 Wednesday  
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