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2015年6月28日 ・・・ 伝わる思い
『NO MUSIC, NO LIFE』
音楽なしでは生きていられないほどの音楽好きですが、
最近はCDを聴くことがほとんどなく、
もっぱらインターネットでYouTubeから、
もしくはそこからダウンロードしたミュージックビデオをパソコンを介して聴いています。
世界の古今東西、名曲名演奏を自由に聴くことのできるのは幸せですが、
こんな状態でアーティストにきちんとお金が落ち、
健全な音楽文化が健全に育つのだろうか、
有り難さと同時にそんな心の痛みも感じます。
YouTubeでいろんな演奏に耳を傾けていると、
年に何回かは、ハッと驚くような素晴らしい演奏に出合うことがあります。
それはほとんどの場合今まで知らなかった音楽家によるものであり、
そんな時は、まるで宝物を見つけたかのような喜びを感じます。
ネットで情報が世界中に広がる現代社会は、
例え無名でも本当にいいものは、
ほとんど時間をかけることなく多くの人に伝わっていくことができ、
それは今の時代の大きなメリットです。
先日、クラシックギターの名曲「アランブラ宮殿の思い出」をYouTubeで聴きました。
演奏は美人ギタリストとして知られる村治佳織、
美しい音色に思わずうっとりです。
<村治佳織 - Recuerdos De La Alhambra - アルハンブラの想い出>
「アランブラ宮殿の思い出」といえば、
荘村清志の得意とする曲です。
今から四十年ほど前、NHK、当時の教育テレビ、
何曜日かは忘れましたが、午後六時半から「ギターを弾こう」 という番組があり、
荘村清志が講師として登場し、よくこの曲を弾いていたのを覚えています。
<荘村 清志 アランブラ宮殿の思い出>
荘村さんのギターを聴くのは久し振りです。
さすがに達者な指使いですが、
好みで言えば、ちょっとテンポが速過ぎるかな、
少し感情移入しにくい感じです。
ひとつの曲でリズムやテンポ、
様々な解釈の違いが生まれてくるのは当然のことです。
またそれを味わうのが音楽の楽しみであり、
その中でもとりわけクラシックはそのバリエーションの幅が広く、
一度心を捉えられると、なかなかそこから抜け出すことができません。
YouTubeは、ひとつの曲を何人もの演奏者のもの、
また同じ演奏者の異なる時期の録音をも瞬時に聞き比べることができます。
二人の奏でる「アランブラ宮殿の思い出」を聴き、
他の演奏者はどのように弾いているのかとても興味が湧いてきて、
荘村さんのページにリンクしてあった朴葵姫(パク・キュヒ)という
初めて聞く女性の演奏を聴いてみることにしました。
本当に素晴らしいものは、頭よりも先に体が反応します。
演奏が始まり、これまで聞いていたのとは異なる柔らかい響きに
思わず意識が引き寄せられ、それと同時に、
胸の奥から温かいものが横いっぱいに広がり、
次はその感情が塊のようなものになって、お腹から上に向かって昇っていきました。
まったく訳の分からない表現で恐縮ですが、
これが実際ほんの十秒にも満たないわすがな時間に生じた肉体感覚です。
湧き上がってきた感情とともに頭に浮んだのが、
インドのホームで貧しくも明るく生きる子どもたちの姿です。
そして子どもたちのけなげな明るさを思い出すと、自然と涙がこぼれ落ちてきます。
これは彼女の演奏がインド風であるというのではなく、
自分の心の中にあるインドの子どもたちに対する切ない感情と、
この演奏から感じ取る切なさが同質であるがゆえ、
自分の中でその二つがリンクしたのだと思います。
どの演奏に心動かされるかは人それぞれであり、絶対的なものではありません。
けれど「アランブラ宮殿の思い出」は、
その後二十人ぐらいの演奏者のものを聴きましたが、
彼女の演奏ほど大きく心揺さぶられるものはありませんでした。
その要因はどこにあるのか、それを言葉で正確に表現することはできません。
音楽の感動は言葉を越えています。
何かと話題の多い作家百田尚樹による
クラシック音楽を紹介する本が書店に並んでいます。
その本の帯に書かれている言葉、
~ 「文学は音楽に敵わない」と思わずにいられない瞬間がある ~
この言葉に大いに同意します。
とは言え、様々な表現方法は、
それらを横一列に並べて優劣をつけることは不可能です。
それぞれに得意な表現形態があり、
その表現方法でしか伝わらない思いというものがあるはずです。
今から三十年ほど前、当時はサラリーマンをしながら、
将来シナリオライター(脚本家)になることを密かに夢見ていて、
「シナリオ」、「ドラマ」といったシナリオ雑誌を購読し、勉強してました。
役者の述べる台詞通りに書かれたシナリオは一般的には馴染みがなく、
最初は読むことに違和感を覚えるのですが、
慣れてくるとそこに普通の小説にはない味わいを見いだし、
頭の中でひとつの舞台を広げていく楽しみを感じるようになります。
その頃山田太一の書いた「異人たちとの夏」という小説が映画化され、
その原作である小説、映画化されたもののシナリオ、
そして映画、この三種類の形態を読み、見る機会があり、
それぞれの表現方法による違いを感じ取ることができました。
若かりし風間杜夫演じる主人公が、
幼い頃に鬼籍に入った両親とある夏の日に出会い、
しばし邂逅の時を過ごすという、
ミステリー仕立てでありながらノスタルジックあふれる物語です。
最初の両親との出会いは、
昔ながらの演芸場に足を運んだ時、
さかんにヤジを飛ばす亡くなったはずの父親(片岡鶴太郎)の姿を見つけ、
少しずつそれが本当に父であるという確信を持っていく場面です。
実際にはあり得るはずのないことを目の当たりにし、
疑問と戸惑い、そして懐かしい思いで心は揺れ動きます。
しかしここの心理描写は映像ではなかなか上手く描くことができません。
文章では心の動きを言葉で表現できても、
映像でそれをナレーションや役者の台詞として表現してしまうと、
いかにも安っぽく、取って付けた “説明” のようになってしまいます。
世阿弥の言葉、
『秘すれば花なり 秘せずは花なるべからず』、
けれどどうしても言葉を加えなければ表現できないことがあるのは、
もどかしくも致し方のないところです。
そして両親との最後の別れの場面、
上の映画予告編にも少しだけ出ていますが、
たしか天ぷら屋で一緒に食事をしている最中に、
時が来て、両親はともに黄泉の国へと舞い戻ってしまいます。
今見ると、24年前の映像技術では、
消えていく場面がちょっとちゃちっぽいですね♪
その両親が消えた後、
卓上には食べかけ料理が入ったお皿、箸、
そして上がり口には履物が残されていたのですが、
自由奔放な父親のものは乱雑に、
それに付き従う母親のものはきちんと揃った状態で置かれています。
そこには両親の個性が端的に表現され、
その映像を見ただけで、
今その直前の瞬間までそこにいたであろう二人の気配と、
生々しい両親への懐かしい思いがわき上がってくるようでした。
言葉でしか表現できないものもあり、
また言葉では表現できないものもあるのです。
同じ言葉も使い方によって力の持ち方が異なり、
それは場合によって使い分けなければなりません。
言葉は口から発するものと文字にするもの、
大きくこの二つに分けることができますが、
口から発するものは即効性を持つのに対し、
文字は時とは関わりなく相手の心に染み渡ります。
その特性を上手く活かすためにも、
『嫌なことはその場で、口頭で、
そしていいことは文字で、間接的手段で』
ということを心がけでいます。
何か人に注意しなければならないことがあった時、
それを後になって、しかも手紙やメールといった方法で受け取ったなら、
とても不愉快な感情が残ります。
嫌なことはたとえ言いにくくても、
その場で、口頭で伝えなければなりません。
またいいことは、その場でお礼や感謝の言葉で伝えられても嬉しいものですが、
後になって、文字で表現された伝達手段で届いた時は、
じんわりとその喜びが心に染み入ります。
また第三者から、
「○○さんがあなたのことを高く評価していたよ」
と伝えられたら、直接言われるよりもさらに嬉しいものです。
今自分の回りには、ハガキ道といって、
『ハガキをたくさん書くことで人生を切り拓いていこう』
と志し、実践している人たちがたくさんおられます。
ハガキにはいい言葉しか書きません。
それを写経をするが如く己の心を見つめながら書き、
また相手と喜びを共有する、
言葉という手段を用いた心を養う最上の手段のひとつです。
小・中・高等学校と、学校に通っている間、
国語の教科書を通して数多くの古今の名文と出合うことができました。
そこで紹介されている古典とも呼べる名文の中で、
特に心に残っているのが中島敦の山月記です。
語られている内容もさることながら、
美文と称するに相応しい流れるような言葉のリズムに、
まだ十代半ばを過ぎたばかりの自分の心は大いに惹かれ、
特に物語冒頭の部分は幾度も読み、暗唱できるほどでした。
そして今も時折山月記には目を通しますが、
約四十年前に感じたその文字の連なりにの美しさから受ける印象は、
少しも色あせることがありません。
YouTubeでは、江守徹の素晴らしい語り口調でその全文を耳にすることができます。
言葉で表現できる思いがあったとしても、なかったとしても、
それとはまったく関係なく、
どんな表現手段でも、その表現手段を突き詰めていけば、
必ず何ものとも比べることのでない
ひとつの頂へと登り詰めることができます。
それをこの山月記は教えてくれているような気がします。
思いはきちんと伝えることが大切です。
そしてそれとともに、
その思いの伝え方自体にもひとつの思いがこもり、
それを知り、活かすことが知恵であり、
その人自身の深い思いの表れではないかと感じます。
2015.6.28 Sunday
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