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2013年8月14日 ・・・ お盆に思う

日本列島猛暑の中、今年もお盆の時期が巡ってきました。
安芸門徒の多い広島では、
お墓にはきれいな盆灯籠が飾られ、
さながら華やかなお祭りのような風情です。



自分もお墓参りをし、墓前で手を合わせたいのですが、
両親の墓は奈良県にあり、なかなか行くことができません。
いつか近いうちに、いい報告とともにお参りに行きたいと考えています。


三日後の土曜日は、知り合いのお墓参りに同行させてもらう予定です。
海沿いの高台にある墓地からは瀬戸内の海、宮島を見渡すことができ、
空高く広がる空、目の前に輝く海、
大自然そのものが天国に近い場所なのだということを感じます。

お墓に参らせていただいた時は、
そのお墓に奉られている人が誰であるかに関わらず、
心の中に静かな安心感のようなものをもらえます。

人と人との心はみなひとつに繋がっています。
生きている人たちでもそうなのですから、
天に召され、魂の存在となっている人同士であれはなおさらでしょう。

今頭を垂れ、手を合わせている目の前にあるお墓が誰のものであろうとも、
そこを通して天に広がるすべての世界、
天におられるすべての方たち、亡くなった自分の両親、ご先祖様にも、
きっとその思いが通じているのだと強く感じます。


日本では最近お墓に対する考え方が急速に変わりつつあり、
散骨したり樹木葬のように、
旧来の形あるお墓にこだわらない人たちが増えてきています。

これは戒律、様式を重んじる宗教が形骸化してきているのと同じで、
ごく自然な時代の移り変わりです。


ある知り合いの年配女性は、
早朝まで開いている銭湯に勤め、
毎日深夜から明け方までそこの番台に座っていました。

その方のご両親が眠るお墓のあるお寺には、
お墓に供える塔婆は、そのお寺の売店で買うようにとの
注意書きが書かれていたそうですが、
早朝の仕事帰りにしかお墓に行くことができないので、
家の近くのお店で買った塔婆を持っていって供えたところ、
後日お墓に行くと、その塔婆はゴミ箱に捨てられていたそうです。

宗教とは人の心、魂を救うために生まれ、存在するものです。
その宗教(団体、組織)を維持するためにはもちろんお金が必要ですが、
その塔婆を捨てたお寺の人は、心の中でどのようなことを考えていたのでしょう。


何度も書いてきたことですが、
もうこれまでの時代の宗教的価値観は、完全に終焉の時を迎えています。
金属の時代の象徴である、戒律を重んじ、組織を作り、
その形を守ることによって教えを伝えるという方法そのものが、
もうこれからの水の時代、心の時代の流れに沿わなくなってきています。

これは善悪の問題ではありません。
季節の流れと同様に、ただ形や考え方が移ろっているということです。


インドでも死者を弔う習慣はありますが、
日本ほどお墓を大切に考えることはありません。
それはインド人の精神の根底の流れるヒンズー教の思想では、
人の魂は永遠であり、輪廻するものと考えているので、
人の肉体が滅びることは服を着替えるようなものであり、
すべての終わりではないと捉えているからです。

この東洋的な生命観は自然の成り立ちと合致したものてあり、
より真理に近いものだと感じます。
けれどだからといって、この考え方が最高に素晴らしいかというとそうではありません。

インドのこの輪廻の思想から厳格な身分差別であるカースト制度は生まれました。
輪廻があり、前世があるからこそ、
今世低い身分で生まれてきた人はその原因を過去に作ったのであり、
今世低い身分で迫害を受けようとも、
それを堪え忍ぶことで、来世はより高い身分で生まれ変わることができるのだと、
凄惨な身分差別をも肯定しているのです。


何事に対しても、考え方というのはとても大切ですが、
より大切なのは、その考え方をどう捉えるかという、捉え方、関わり方です。

人の心や魂を救いたい、救われたいと願って生まれた宗教には価値があります。
その願いは人に心がある以上、永遠になくなることはありません。

大切なのはその願い(考え方)を、
時代の流れ、人の心の移り変わりに合わせ、
どのような形で表し、
どのような捉え方をし、関っていくのが望ましいかということです。

捉え方、関わり方というのは主体が自分の中にあるがゆえ、
ごく身近であり、ほんのささやかなものであることがほとんどです。
何をするかということよりも、
その中に込められた思いがより大切です。


選挙があるたびに一票の大切さが説かれ、
投票することは国民の義務であると強く言われます。
けれど実際に投票し、その結果を知った時、
自分の投じた一票によって選挙結果が変わったということは一度もありません。
これから生涯何度投票をするか分かりませんが、
間違いなく99.9%以上の確率で、投票結果に影響を与えることはないでしょう。

人の思いというのはこの選挙と似ていると感じます。
思いがどうであろうとも、
その思いだけですぐに大勢に影響を与えるわけではありません。
ありませんが、その思いを持ち続けることによって、
いつか大きく形を変える力になり得ると信じています。


先に食糧危機のことを書きました。
今こうしてパソコンの画面を眺め、のんびりと食事をしている間にも、
人類同胞の7人に1人の人が飢餓で苦しみ、
1分間に17人の人が飢餓によって命を奪われています。
  <ハンガーゼロ | 1分間に17人飢餓で亡くなっている現実を知ろう。>

日本は乏しい資源しか持たない国であるにもかかわらず、
世界的に見て、物質的、食料的にきわめて恵まれた状況にあります。

日本は食料廃棄率が断トツの世界一であり、
潔癖すぎる日本人の消費志向によって、
まだ十分に食べることのできる食料が大量に廃棄されています。

昨日は、たまたまそんな事情に詳しい方と話をしました。
コンビニに食品を納めているある会社は、
指定された適切な時間に適切な量の食品を配達するため、
変動を予測し、それに合わせて食品を作っていきます。

そして表記上の鮮度を保つため、作り置きはせず、
実際に出た注文が予測より少なく、食品の在庫が余った場合は、
その場ですべて廃棄処分にするそうです。

そうして運ばれた食品もまた、
コンビニの棚である一定時間置かれて売れ残ると、
それが食べられるかどうかにかかわらずすべて廃棄してしまいます。

これが経営であり、効率的運用というものです。
コンビニ(convenience、便利)を追求していけば、こうなるのは当然の帰結であり、
コンビニを求める上では、 “食べ物を粗末にしてはいけない” とか、
“食べ物を感謝していただく” などといった価値観は、
無駄で余分なものでしかないのです。


地球環境が壊滅的危機に瀕し、
世界中に飢えで苦しむ人たたちがいるこの現状を鑑みて、
これが望ましいあり方であるとは、たぶんほとんどの人は思わないでしょう。

けれどこの社会のあり方、構造を変えていくのは容易なことではありません。
容易ではありませんが、これは絶対にしていかなければならないことです。
また誰にでも、その思いと行動があれば、
きっと何らかの変革の力となって世の中に反映されていくものと信じています。

政治家でなくても、食品メーカーの重役でなくても、
コンビニの経営者でなくてもいいのです。
たとえ末端の一消費者であっても、
その思いはいつか必ず何らかの形で結実するものと信じています。

そしてその基本となるものが思いであり、
日々のささいな物事に対する接し方に、
最も大切な大きな力が秘められていると考えます。


先週のことです。
ある会の集まりがあり、みんなでビールを飲み、ご馳走を食べ、
楽しい語らいの一時を過ごしました。

そこはカラオケスナックだったのでテーブルが狭く、
その上には食べ物を乗せた紙皿が折り重なるようにして並べられていました。

時間が経ち、お皿の料理が少しずつ減っていった時、
隣に座っていた男性がほんの少し残っていた枝豆などの料理を手でつまみ、
ゴミ袋に入れ、自分が食べたいと思った乾き物のスナックを袋の開け、
それをお皿の上に並べ始めました。

まだ食べられるものをそのままゴミ袋に入れたことにとても驚き、
またその枝豆を食べかすだと勘違いしたのかとも思い、
その人に、
「それ、まだ食べられるものですよ!」
と大きな声で叫んでしまいました。

するとその人はお皿に残っていたものは、
まだ食べられるものだということを知っていたようで、
「細かいこと言いんさんなや!」
とまったく羞じることなく、広島弁でそう言い放ちました。

自分よりも二十歳ほど年上で、
広島ではそこそこの会社の元経営者であり、
学校のトイレ掃除にも熱心に参加しているベテランの方ではありますが、
なんとも情けないその人の行動に、怒りこそ湧きませんが、
限りない哀れみを感じました。


人の思いというのはこんなささいな行動に現れます。

今の日本に於いて、
特に外食の時に食べ物を残さず食べるというのは難しい注文です。
けれど最低限命を育んでくれる食べ物に感謝をし、
飢餓で苦しんでいる同胞のことを思い、
なるべく残さないように食べることは人として当然の義務だと感じます。
ましてや意図的にまだ食べられるものを捨てるなどは論外です。

これは法律や規則で定められたことではありませんが、
明文化されたルールより、こうした心構えや接し方の方がより大切だと考えます。


日常食べ物に対してこのような接し方をする人に、
今の大量消費、大量廃棄の食料流通の流れを変えることは絶対(!)にできません。

それができるのは、常日頃から食べ物に対して畏敬と感謝の念を持ち、
それをささいな行動の中で実践している人だけです。


お盆は、あの世に行った人たちに心を寄せ、それを弔う時です。
ご先祖様を弔うということと、
ご先祖様からいただいたこの命に感謝を捧げるのは同じことです。

すべての命は繋がっています。
飢餓で苦しむ人たちを思い、尊い食べ物の命に感謝をする、
お盆とは、あらためてこの尊い命に思いを寄せる時ではないでしょうか。

そしてその思いは、ほんのささやかな行動によって表すことが可能です。
これらはその一例です。


食べ物に感謝していただく。
  目の前に出していただいたものは、なるべく好き嫌いを言うことなく、
  感謝して残さずいただきましょう。
  これを心がけたお陰で、嫌いな食べ物がまったくなりなりました。
   (インドのフィッシュカレーのようになるべく食べたくないものはありますが ・・・ )

極力肉食を避ける。
  これは健康の為ではありません。
  牛、豚、鶏、肉食用の家畜を育てるためには、大量の飼料穀物が必要です。
  地球上の限りある食糧資源を有効に活かすためには、
  エネルギー効率のいい野菜や穀物を中心にいただくことが一番です。

食べ物をよく噛んでいただく。
  食事をする時、口の中にある食べ物に対して感謝の気持ちがあれば、
  それに意識を集中し、よく噛んで味わうようになるのは自然なことです。
  また逆に、よく噛むようになると、自然と食べ物に対する感謝の念も湧いてきます。

賞味期限の短いものから購入する。
  スーパーで食料品を買う時は、意識して賞味期限の短いものを選びます。
  それが自然な循環であり、無駄な廃棄物を作らない一助になります。
  「自分だけは少しでも新しいものを」という思いで棚の奥に手を伸ばすのは、
  実に利己的で浅ましい行為であり、
  その思いがその人の運命を形作る元になると考えます。
  これは強制できることではありませんが、
  もしあなたが “スピリチュアルなことに興味がある” と言われるのであれば、
  その愛を体現するためには、
  どのように行動するのが望ましいか考えてみてください。


命を尊び、命に感謝、そしてその与えていただいた命をしっかりと活用しましょう。

2013.8.14 Wednesday  
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