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2013年1月17日 ・・・ 霊の話

霊的体験というものは誰にでも多かれ少なかれあるものだと思います。
その中でも目に見える現実世界にいろんな現象を引き起す霊の働きは、
まだ成仏し切れていない霊となって日の浅い存在なのかもしれません。

そんなことを専門的に研究しているわけでもなく、
またそういったものを見る能力もありませんので、
かもしれない、としか言えないのですが、
霊媒者などが念を込めて “成仏” させてあげている姿を見ると、
霊障の原因となる霊は、きっと “迷っている” 存在なのだと思われます。

この時空の存在はすべてフラクタル(自己相似形)です。
日中は目覚めた状態で活動し、夜は横になって就寝する、
この一日二十四時間のサイクルは、
数百年、あるいは数千年サイクルと思われる、
この世とあの世を行き来する輪廻転生の流れとフラクタルです。

夢を見た直後に目覚めた瞬間は、
何が夢で現実なのか、一瞬判断ができなくなります。
目覚めてしばらくは覚えていた夢の内容も、
ほんの少し時間が経つにつれ急激に記憶が薄れます。

これはやっと言葉が喋れるようになったぐらいの幼児が、
かなり高い確率で母親の胎内での様子や、
そこに至るまでの前世のことを記憶していることと一致します。

また肉体から離れて霊的存在となった直後は、
自分が肉体生命として生きているのか死んだのか、
判別できなくて迷ってしまうということも、
朝の目覚めの様子と比較すると納得できることです。

これは自らの霊能力でもって感じ取ったことではありませんが、
時空すべてのものが精妙なフラクタル構造で成り立っているという事実を鑑みると、
永遠の命があり、その一時的乗り舟である肉体に入ったり脱したりする際に、
形としては劇的な変化を遂げても、
そこに宿る精神、意識がどっちつかずの状態で彷徨い、戸惑い、
過去を振り返ったりしながら右往左往するのは自然な姿だと感じます。


二十数年前、初めて霊媒としての能力を持つ方と関わった時、
その関わりを邪魔するかのように、
様々な現象が目の前で起こりました。

その現象のほとんどは電磁波による障りです。
スイッチを入れているテレビの電源が突然落ちたり、
互いに連絡するのを邪魔するかのように電話機に障害が起き、
留守電のメッセージを聴くことができなくなったりしました。

これは多くの人が同様の体験をしているようで、
霊の働きは電磁波と類似したものだということを、
その後いろんなところで耳にしました。


実は今もまたそんな働きを感じる時があるのです。
昨年末から身の回りの多くのことが激変し、
いろんなことが動きだし、
それに伴って膿のようなものも出てきているのかもしれません。

何人かの人がこちらに送ってくれたメールが届いていないのです。
現在はGmailを介してメールのやり取りをしていますので、
そんなエラーが起こることはほとんど考えられないのですが、
届かなかったメールを送ってくださった方というのが、
みな何らかの能力を持つ人たちなのです。

そういった人との関係を邪魔する何かがあるのでしょうか。
まだまだ修行不足です。

霊は陰陽でいうと陰性の存在です。
ですから除霊したり清める時は、
強い陽性の塩を用いるのです。

明るい陽気な性格の人には霊は取り憑きません。
明るく元気に、これをモットーにいきましょう♪


最近メールのやり取りをする方の中で、
たびたび霊のことを書いてくださる方がいて、
それで思い出したように霊のことを書いてみました。

霊というものは別に悪いものではありません。
時には恐ろしい出来事を引き起こすこともありますが、
すべては受け取る方の感じ方です。

そんなことを感じた体験が十五年ほど前にありました。


当時は解体工事の現場で働いていて、
古くなって立て替えるビルや民家を解体する作業に従事していました。

古い取り壊す家の中には、家財道具がたくさん残されていることがよくあります。
それだけで生鮮食料品以外の生活道具はすべて揃う
と言っても過言ではないほどで、
“モノあまり日本” の現状を映し出しています。

ある広島市内の古い木造平屋建ての家の現場に行った時、
そこにはお年寄りの方が住んでおられたのでしょう、
昔懐かしい木製の家具や生活用具が数多く残されていました。

その中で写真の入ったひとつの額縁が目に入りました。
その額に飾られていたのは、
日本で最初に国宝に指定された京都の広隆寺の弥勒菩薩像の写真でした。



こういった神仏に関わるものを家に持ち帰るのはよくないのですが、
この弥勒菩薩像には以前からとても心惹かれていて、
どうしてもこれを家に飾りたくなり、
きれいにほこりを落とし、持ち帰ることにしました。

それを家に持って帰った日、
床に直接立てかけていた別の仏画の額が倒れました。
それは奈良のシルクロード博で手に入れた仏画で、
ペラペラの紙に刷られた版画だったのですが、
とても気に入って、業者に裏打ちしてもらい、
立派な額に入れて飾っていたのです。

その額が倒れた時、表のガラスが割れて床に散らばってしまいました。
新しい仏様の写真が家に来て、それとけんかでもしたのでしょうか。
嫉妬でしょうか、あまり喜ばしいことではありません。


その翌日、仕事を終えて家に帰った時は、もう外は真っ暗です。
家の玄関に入り、灯りのスイッチを入れてもなぜか電気が点きません。
これまでそんなことは一度もなかったので不思議だったのですが、
しかたがないので真っ暗闇の家の中におそるおそる足を踏み入れ、
手探りで灯りを点す方法を考えました。

その時です。足の裏にほんの少しチクッとした痛みが走りました。
その瞬間、昨日割れたガラスの破片が
足の裏を切ったのだということが分かりました。

けれど痛み自体はたいしたことがありません。
そのまま灯りを求めて部屋を歩き、奥の部屋の灯りを点し、
部屋が明るくなった瞬間、部屋の様子を見て本当にビックリしました。

玄関の辺り一面が真っ赤な血の海になっています。
ガラスによる切り傷は大量の出血を呼ぶのでしょう。
また体の一番下の部分だったので、出血しやすかったのかもしれません。

すっかり気が動転し、近所の人に声をかけ、救急車を呼んでもらい、
近くの病院で傷口を何針か縫ってもらいました。


出血は大量にあったものの、怪我はたいしたことはありませんでした。
けれどなんでこんなことになったのでしょう。
翌日分かったのですが、普段は絶対に触ることのない電灯の元スイッチが、
何かの拍子で切れていたようでした。

これは持ち帰った弥勒菩薩像の影響なのでしょうか、
とにかくよく分からないまま、
いつも布団を敷く枕元あたりにその額を置いておくことにしました。


それから数日経ち、ふと弥勒菩薩像の額に目をやると、
その写真が少し傾いていて、
写真の後ろ側に何かがあるように見受けられます。

そこで額縁を手に取り、裏側を開けてみることにしました。
その裏板を取り、弥勒菩薩像の下側にあったもの、
それはなんと喪服を着た見知らぬおばあさんの遺影だったのです。

一瞬にして背筋に冷たいものが走りました。
これをどう解釈するかは人それぞれでしょう。
これは誰にとっても心地いい体験ではありません。
怖い、気持の悪いものです。

この遺影を飾った弥勒菩薩像の額をどう処分するか、
当然ながらそのことがまず頭に思い浮かびました。
もう一瞬たりとも手元に置いておきたくない。
それが正直な気持です。

けれどそんなことを考え、ほんの少し時間が経ってくると、
心の中の思いが少しずつ変化していきました。

その頃は、まだ母が亡くなってから三四年しか経っていない頃だったと思います。
その遺影のおばあさんに母の面影を重ねて考えてみました。

そのおばあさんも、
亡くなってからしっかり供養してもらいたいという気持はあったとしても、
決して人を不幸にしようなどとは考えていなかったはずです。

もしこれと同じような状況で、
誰かが母の遺影を手にし、それを忌み嫌ったとしたら、
私は決して心地いい思いはしないでしょう。

そう考えたなら、この遺影のおばあさんを愛おしいとは言えないまでも、
なんとか母を思う気持と同様に供養してあげたいと考えるようになりました。


それから二三ヶ月、その額はそれまでと同じ枕元に置き、
時折手を合わせて拝ませてもらうようにしました。

そしてその後は近くの神社に行き、
古いお札を入れる箱の中に入れ、成仏してくださることをお祈りしました。


これは霊の話に限らずですが、
すべては自分とものとの関わり方、とらえ方が価値を決めます。

霊の世界はよく分かりませんが、
それを恐ろしいと感じれば恐ろしいものとなり、
それも尊い精神世界の一部だと感じればそのようになるでしょう。

これからは人類みんなが魂の本源に還る時代になるのですから、
霊の存在も、きっともっと身近で明確なものになるであろうと感じます。


私たち一人一人はみな霊的存在なのです。

2013.1.17 Thurseday  
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