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ヨガナンダ



2012年9月7日

毎週金曜日は朝早く家を出て、
積極人間の集いという異業種交流会に参加するのを楽しみにしています。

毎週いろんなジャンルの違った講師が登場し、
その人ならではの話や芸を披露してくださり、
またそれについて、参加者全員が一言ずつコメントを述べるのが楽しいのです。

今日は米川繁樹さんという、いろんなガラクタを楽器にしてしまう、
珍しい特技を持たれた方のお話しと演奏(パフォーマンス?)でした。

やかん楽器を演奏する米川繁樹さん

テーマは「もったいないの心」ということで、
本来ならば捨てられてしまうものでも、
楽器として見事に再生できるということを、
実際の演奏を通して伝えてくださいました。

傘を楽器として演奏する米川繁樹さん

やかん、杖、傘、じょうろ、バケツ、・・・なんと40種類のガラクタを
楽器に変えてしまわれるのだとか、すごいです。

ただし穴の位置や大きさを変えて音程を調整するのが難しく、
歩留まりは10%程度とのことです。
つまり10個のガラクタから楽器を作っても、
きちんと音の出るものはそのうちの一個ということです。

じょうろを楽器として演奏する米川繁樹さん

米川さんは、前に立っておられる間中、
「もったいないから・・・」ということを言い続けておられました。

限りある資源、ものは大切にしなければいけません。
今日は米川さんのお話を通して、
もったいないということの意味を深く考えさせてもらいました。


70億にも膨れあがった人口を抱える人類は、
巨大な文明の上にその生活の基盤を築き、
壊滅的なまでに地球環境を破壊し続けてきました。

もうその破壊の進み具合は許容の限度を超えていると言っても
過言ではありません。

ですからもったいないを通して訴えている
地球上の資源を大切にし、環境に負荷をかけない生き方は、
人類全体に与えられている避けては通れない課題だと言えます。

ではもったいないという考え方は、
すべてにおいて善なのでしょうか。
そう考えると、素直にうなずくことができないのも事実です。


交流会後半の参加者によるスピーチの中で、
ある立派な先生がこんなことを言われました。
「日本は国全体の活気がなくなり、
 世界の中での日本の地位が相対的に下がってきています。
 これはなんとかしなければなりません」

このことに、たぶん多くの人はうなずくでしょう。
けれど経済の活性化と、資源を大切にする低消費生活とは、
まったく相容れない事柄であるということをみなさん理解しておられるのでしょうか。

もったいないを合い言葉に、古いものを大切にし、新しいものを買い控えたならば、
消費はますます冷え込み、経済の勢いは減速する一方です。

右肩上がりに経済が上向かなければ幸せにならないと信じ込まされ、
それに向かって何の疑問も持たずに馬車馬のように突き進んでいる私たちは、
資本主義という魔物に洗脳され、
幻覚を見続けさせられている人形のようなものです。

だからと言って、この社会の仕組みを全面的に悪と捉えることもできません。
資本主義によって文明は発達し、
たくさんの恵みを私たちは享受しています。

ただこの流れは今後も同様の形で継続させていくことは不可能であり、
これまでの消費文明がもたらしてくれた恩恵と、
ものを大切にするもったいないの思想とを、
どのように折り合いをつけていくのかということが求められています。

それを無視し、ただもったいないの思想が素晴らしいと説くだけでは、
単なる観念論に過ぎません。

また同様に、環境問題を無視した経済の発展のみが唯一の幸福とする考え方も、
今や机上の空論であると言わざる得ません。


もったいないという言葉は、資源を無駄にしないというだけではなく、
今あるものを活かしていくという意味も含まれていると思われます。

では活かすとは何でしょうか。
それはそのものの特質を十分に使い、
人の役に立ち、喜びを与えるものにしていくことだと考えられます。

米川さんが様々なガラクタを楽器に変えてパフォーマンスすることで、
ものを大切にし、それを活かす道を観ている人に示すことは、
とても意義のあることだと思います。

けれどその行いが、100%善に通じるものかというと、
けっしてそうではないと思います。

様々なガラクタ楽器の出す音色は、
日本古来の横笛のような音と響きをしていました。

ならばこのガラクタ楽器が横笛の代わりになるでしょうか。
横笛を本格的に学びたいと考えている人が、
手近なガラクタを楽器にすればいいと考えて、
古来からある楽器を顧みることなくガラクタ楽器で満足し、
本来あるべき楽器の姿を求めないことが、
望ましい生き方だとは思えません。

楽器を作る職人は、
その材質には何が優れているか吟味を重ね、
加工していく段階でも熟練の技を用い、
精妙な音色を作り出しています。

それが伝統の技であり文化であり、
それを求めることが、もったいないと反することだとは考えられません。


もっと極端な話をしましょう。
森林資源保全のため、日本では割り箸を使わず塗り箸を使う動きが進んでいます。
さらに環境を考える人は、マイ箸を持ち歩き、
外で食事をする際はそれを使うようにしておられます。

けれどその考えをもっと推し進めるのなら、
みんな箸ではなく、一時は学校給食でも大いに使われた
先割れスプーンを使えばいいのです。
そうすれば、箸だけではなく、
フォークやスプーンの代わりにもなり、
洗い水の節約になるではないですか。

けれど実際にはそんなことは誰もしませんね。
もったいないを突き詰めることが、
伝統や文化を破壊することになっては意味がありません。
またそれが活かすということにはならないのです。


知り合いに陶芸の世界に暮らす匠がいます。
彼は己の手を使った陶芸との実践を通し、技を磨いていますが、
その過程は端から見れば、実に無駄で非効率的なものです。

機械で研磨すれば短時間にすむものを、
自らの手を使い、200時間かけて削り落としました。

灼熱地獄の登り窯と長時間向かい合うことにより、
先人から伝わってきた技法を、
言葉を超えた不思議な身体感覚で理解することができたと語っています。

彼の作り出す一枚の皿には、
膨大な努力と知恵、時間と苦労が染み渡っているのです。

これは一見もったいないとは対極にあるもののように思えますが、
これが豊かさであり、この豊かさが、
神仏に手を合わせる時に唱える、
「あ〜もったいない、もったいない」と、感謝の意を述べるもったいないなのです。

伝統文化や歴史に裏打ちされたものが本当の豊かさや価値であり、
それがないがしろにされ、
機械的一律的な価値観や幸福感を押しつけられるから、
いつまで経ってもそれに満足できず、より物質的に過剰なものを求め、
飽食の時代と呼ばれる、ものは余っていても心は豊かではない時代を迎え、
それを是正するもったいないの考え方が、
貧しい考え方のようになってしまっているのです。


食べ物でいうならば、
玄米のように完全栄養食であり、
生命エネルギーに満ちたものを食べていると、
少量で満足でき、健康も維持できます。

けれど見たところ豪華な美食を普段からしていると、
本質的な栄養やエネルギーがない分、量を過剰に摂取しなければならず、
メタボになり、今度は病気になって薬を飲まなければならず、
場合によっては入院を要するようになるかもしれません。

そうなってから、そのサイクルを変えず、
美食のままで食べる量を減らしたら、
今度は栄養失調になってしまいます。


現代人にもったいないという考え方が求められていることは事実ですが、
その求めに応じるためには、
今のまま消費を低減させるのではなく、
少ない消費でも本当に満足感のある暮らしができる、
本当の豊かさを求める暮らしにシフトしていかなければなりません。


繰り返しますが、米川さんのガラクタ楽器が悪いわけではありません。
米川さんは、あくまで象徴としてそのパフォーマンスを行っているのであり、
私たちはそれをそのまま受け入れるのではなく、
そこから何を学び、感じ取るかを知るべきです。

答えはすべて自分が見つけ出すものです。

2012.9.7 Friday  
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