平和への祈り
今年も広島で一番暑い夏の日がやってきました。

朝から厳しく照りつける太陽の下、午前八時過ぎにはただ立っているだけでも
じっとりと汗ばんでくるような熱気です。

ちょうど六十年前の今日、“あの日”の広島も、
きっとこのような厳しい暑さだったのでしょう。


広島で暮らすようになって十五年、今回初めて『平和祈念式典』に参加してきました。

平和祈念式典

式典の始まる午前八時少し前に会場である平和記念公園に着きましたが、
会場付近は全国から集まったものすごい数の人たちであふれかえっています。
もちろん世界各国から来られた外国人の方の姿も数多く目に付きます。

主催している広島市の発表では五万五千人、昨年より一万人多いそうですが、
この人数をもってしても広島の原爆で亡くなられた二十六万人という数字には
はるかに及びません。
会場の人混みに紛れながら、その被害の大きさを肌身で感じることができました。

慰霊碑には、献水といって広島市内各所から採ってきた水が捧げられています。
被爆された方はみな強烈に喉が渇き、水を求めて歩かれたということを聞いています。

この原爆ドームの横を流れる元安川にも、水を求める数多くの人たちが入り、
おびただしい数の遺体が浮かんだのだそうです。

原爆ドーム

会場では冷たい水を提供してくれるところがあり、
この水を飲みながら、水を求めた被爆者の方たちの無念の気持ちを悼んでください
とのポスターが掲げられていました。

式典が終わるまでの一時間少々の間に、私は四杯の冷水をいただきました。
それぐらい今日は暑かったのですが、
“あの日”に水を求めた被爆者の方たちの喉の渇きは、
今日の私の比ではなかったことでしょう。


広島、長崎に原爆が投下され、大戦が終わって六十年、
その間世界各地で平和を唱える声は途切れたことがありません。

その声は地球に暮らす私たち一人一人の心に届き、
平和への祈りは確実に実を結んでいるのでしょうか。

人類史史上希に見る悲惨な広島、長崎における原爆投下という事実を
私たちは貴重な教訓として活かすことができているでしょうか。


広島の平和記念公園にある原爆慰霊碑には、
『安らかに眠って下さい 過ちは 繰(くり)返しませぬから』という
有名な碑文が刻み込まれています。

先月二十六日、ある右翼団体の若者によって、この碑文が傷つけられました。
自ら出頭した彼は、
「過ちを犯したのはアメリカで、慰霊碑の『過ち』という文言が気に入らなかった」
と述べたそうです。

安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから

彼の言うように「過ち」とは、原子爆弾という、非戦闘員である一般市民を大量に殺戮する
恐ろしい兵器を使用したアメリカにあるのでしょうか。
それとも原爆を落とされなければならないような行為をした日本にあるのでしょうか。

今月発表されたアメリカの世論調査によると、大多数のアメリカ国民が、
戦争を終結させる目的で行われた原爆投下について支持する姿勢を示しています。

“あの日”から六十年、これだけの歳月をかけても、
原爆を考える際の最も根幹となるべき『原爆投下の是非』ですら
日米両国民の間で大きな意識の差があるという事実は、
平和運動の難しさを如実に物語っています。


原子爆弾、最近ではアメリカ軍がイラクで大量に実戦で使った劣化ウラン弾などを
『非人道的兵器』と呼ぶことがあります。

『非人道的兵器』があるということは、『人道的兵器』が存在するということです。
通常の機関砲やミサイルなど重火器類は人道的な兵器なのでしょうか。

主義主張の違いから互いに国や地域が戦争をし、殺し合うのも、
人道的立場から見れば、最低限は『必要悪』として認めるべきなのでしょうか。


広島に住んでいると、様々な行事や報道の中で『平和』という言葉を
目にし耳にします。

平和は誰しもが望んでいること・・・・、本当にそうでしょうか。
兵器産業は戦争によって巨額の利益を手にします。
最近でも『人道的理由で問題があるとされる国』へ軍隊を送っている多くの国が
自国の政治的、経済的理由で派兵を決定しているということは、
表だってはいないものの歴然たる事実であります。


今日の平和祈念式典が行われているその間、
式典に異を唱える団体の叫び声のようなスピーカーからの音が
ずっと遠くの方からかすかな音量ではありますが聞こえ続けていました。

『平和運動』というものも、ひとつの主義主張に過ぎないのではないか・・・、
そんなむなしい思いが頭の中をよぎります。

『平和運動』に意味がないと言うのではありません。
私もボランティア活動として平和を求める活動にたびたび参加をしています。

ただ『真の平和』を願うのであれば、
私たち人間とはいったい何なのか、
私たちは何のために生まれ、何をしようとしているのか、
私たちにとっての「真の幸せ」とは何なのか、
こういった根源的なところからより深く人間、自己を見つめることが
必要ではないかと考えています。

そしてその問いに対する答え、これを見つけなければならない時期が、
もう目の前に来ているように感じています。


最後に、インターネットで最近見つけた『戦争のむなしさ』を感じさせる一枚の写真を
載せておきます。

戦争のむなしさ

どのような理由で行われている戦争であっても、
その結果多くの人が傷つき悲しむということ、
それは間違いのない事実です。

2005.08.06 Saturday


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