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カンボジアで感じたこと<2>

外国に行くと日本との違いを強く感じます。
けれどもこのたびのカンボジアへの旅では、
日本とカンボジアとの違いよりも、
同じく発展するアジアの国であるインドとカンボジアが、
どこが同じでどこが違うのか、
その点に強く意識が向きました。

インドと言ってもきわめて広く、
カンボジアも私はほんの一週間ほど訪ねただけですので、
その範囲内でということですが、
私の訪ねる南インドとカンボジアは、
気候的にはほぼ同じだと思われます。

南国で、雨期にはスコールがあり、
椰子の実やバナナの木が生い茂り、美味しい果物が豊富にあります。

町には車もたくさん走っていますが、
三人乗り、四人乗りのバイクが身近な足として活躍し、
町角には、日本人的感覚からすると、
あまり衛生状態のよろしくないような露店が建ち並び、
その横ではケイタイ電話をせわしなく操作している人をよく見かけます。

町から離れ、一歩農村地帯に足を踏み入れると、
木や椰子の葉っぱといった自然素材をそのまま使った
手作り風の小屋のような家がたくさん並び、
裸に近い格好の子どもたちが、
のんびりとした空気の中、両親やお年寄り、
鶏や牛、豚といったたくさんの家畜とにこやかな時を過していました。

たぶん町の近代化、農村の牧歌的風景という面では、
インドもカンボジアもほぼ同じ程度であろうと感じました。

ただインドの方が、光り輝く近代的な部分と、
底知れぬ闇を抱えた漆黒の世界とのダイナミックレンジが大きく、
カンボジアはインドと比べ、すごく “うす味” な印象を受けました。


カンボジアの人たちはとても穏やかな印象であり、
インドの人たちはみなよりパワフルです。

カンボジアの道路はゴミが散乱していることはなく、
突拍子もない音量の音楽や車のけたたましいクラクションに
驚かされることもありません。

もっとも道路のゴミは、つい最近ゴミ回収が徹底されるようになったとのことで、
数年前までは、今よりもかなりひどい状態であったとのことです。

露店や飲食店で飛び交うハエも、皆無ではないものの、
めったに見ることはありませんでした。
蚊にもまったく悩まされることはなく、
一週間いる間、虫に噛まれたのは、
田舎道を歩いていて蟻に噛みつかれた一度だけです。

カンボジアの町は整っているという印象があり、
インドの猥雑とも言える混沌さはほとんど感じません。
これは近代化うんぬんというよりも、
国民性やそれに起因する衛生概念、浄不浄の考え方の違いだと思われます。


カンボジアでは、ここ数年間で急激に都市化が進み、
町がきれいになり、新しいビルが建ち、護岸も整備され、
ツクツク(三輪バイクタクシー)の運転手も品行方正になった、
そんな話をたびたび耳にしました。

インドでもカンボジアでも、その他急激な経済発展を遂げている東南アジア各国は、
同じような形で町が変わりつつあるのだと思われます。

日本でも各地の町で、都市化という合理化が進み、
町の個性が失われてきたように、
経済発展により、これまで貧しかった多くの国が、
没個性化し、ひとつの方向に進んで行っているのでしょう。


その進んでいく方向が、多くの人に幸せを与えるいい方向であればいいのですが、
私にはどうしてもそうは思えません。

これは昨年インドに行って感じたことであり、
またこのたびカンボジアに行き、更に強く感じたことです。
それは一言で言うならば、
『文明は麻薬である』ということです。

麻薬の味を一度知ったなら、
その快楽の虜となり、
その快楽がやがて苦しみに変わろうとも、
強い禁断症状が現れ、
二度と元の状態に戻ることができなくなります。

最初は微量の麻薬で満足していたものが、
少しずつより強い刺激を求めるようになり、
たとえ我が身が滅びようとも歯止めがきかなくなり、
最終的には行き着くところまで行ってしまうのです。

肉体と知性を持つ私たちが、
文明によってより安楽な暮らしを求めようとするのは本性であり、
それを否定するつもりはありません。
けれどもその裏に隠された危険性というものも認識し、
それと付き合っていかなければ、
人類は、本当に理性ある生き方をしているとはいえないでしょう。


ミクロ的な幸福が、必ずしもマクロ的、永遠の幸せにつながるとは限りません。

カンボジアの首都プノンペンは、都市としての急速な近代化、
教育の充実、環境の整備が行われ、
このままのペースで進めば、
近い将来日本やアメリカにも匹敵する文明都市として生まれ変わると思われます。

インドでもカンボジアでも、急成長する国家はどこも同じだと思いますが、
伸びゆく都市部と昔ながらの暮らしを営む農村部との間の経済格差は
大きくなる一方です。
農村部では、都市部の暮らしに追いつこうと様々な施策が行われていますが、
なかなかその差は縮まりません。

けれどもここで考えなければならないのは、
目標となる先進国家の都市に暮らす人々、
発展途上国と言われる国の都市部に暮らす人々、
そしてその国の農村部で貧しい暮らしを送る人たち、
これらを比べた場合、
間違いなくより文明的で近代的な国家や都市で暮らしている人々の方が、
表情に生気がなく、
逆に貧しい国や農村部に暮らす人たちの方が、
日々穏やかな時を過し、子どもたちは輝くような笑顔を持っているということです。

貧しさは様々な悲劇を生む温床となることもあるでしょう、
それは事実ではありますが、
それとは逆に、文明もまた、
人間から生きる上での大切な何かを奪い取っていることも事実です。

私たちは、文明という麻薬に酔いしれ、
意図的にその事実から目をそらそうとしてきました。
そしてその行き着いた先が今の世界情勢であり地球環境です。


生命を持つ歴史の大きな流れの中で、
今という時代の大転換期に、
いよいよ今のままでは一歩も前に進めないような状態になるのは、
大きな必然性を持ったことであり、
我々が持つ運命の流れであるとも考えられます。

インドやカンボジアで見た子どもたちのあの素晴らしい笑顔、
それをこれからも絶やさないためには、
すべての文明を享受する国が、その文明の持つ麻薬性に気付くことであり、
それを気付いた上で、新たな文明の枠組みを作り直すことしかないと考えます。

そしてそのためには、
彼らの一歩も二歩も先に文明の快楽を享受し、
また震災によって、その文明の崩壊を世界に先駆けて体験している日本が、
新たな文明のパラダイムを構築してく役割があるものと考えます。

それは今この時しかありません。
日本は世界の先進国のひとつだと考えられていますが、
数年後には確実にその地位から脱落します。

マスコミはひた隠しにしていますが、
東北地方の放射能被害は、
今後その恐ろしさが時とともに明らかになってくるでしょう。
原発の処理がまったく収束していない現在、その恐怖度は未知数です。

海にばらまいた海洋汚染の問題も深刻です。
数年後、沿岸各国から、数百兆円規模の賠償責任を問われることは確実です。

やはり日本は、物質文明から新たな文明へと、
人類を導いていく大きな役割があるのだと感じます。
今はその役割を果たすための試練でしょう。
これは私の個人的解釈です。


カンボジアののんびりと穏やかに流れていた空気、
それを守っていくためにも、
日本人には日本人として与えられた、今現在の役割を全うすることだと思います。

私はヒロシマで暮らす一市民として、
新たな平和への取り組みを続けていきます。

2011.9.3 Saturday  

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