弥勒の印をするようになって一か月半、本当にいろんなことがありました。
偶然とは思えないような引き寄せ、未来を予感させるサイン、そんなラッキーと思えるようないいことの他に、ある特定の人に対して巡りあわせが悪いとしか考えられないようなミスが重なり、気まずい関係になったこともあります。
「いいこと」とは一体何なのか。
この世の現実はすべて自らが創り出したもの、引き寄せたもの、これが真実であるならば、真に望むべきは今この場で好ましい現象を現すことではなく、その好ましいと感じられる現実を常に創り出せる自分になることです。
またその現実に喜びを感じられるようになることです。
そのためには時には試練を体験し、自らを振り返ることも必要です。
現実は常に自分が創り出していて、そこで起こる現象よりもそれをどう感じるか、その解釈が大切です。
ここ最近幸運な引き寄せと感じられることが多く、それはそれで嬉しいことですが、そのお陰で起こる出来事すべてに必然性をより強く感じられるようになりました。
つまり幸運な引き寄せが必然であるのと同様、逆のアンラッキーなこともまた必然であり引き寄せである、この当たり前のことを以前よりより強く感じます。
『すべては学びであり自らが引き寄せたこと』
これは頭では分かっていても、特にアンラッキーなことは深く受け止めて己の糧とすることは難しいものです。
けれどここ最近は怒涛の如く流れゆく運気をひとつのまとまった塊のように感じられ、そのすべてを学びとして生かすことができるようになったことを感じます。
これが弥勒の印の最大の効果でしょうか。
しかしもっと深く考えるならば、本当に弥勒の印は効果があるのかということも思います。
ここ最近の動きは、「弥勒の印は効果があるに違いない」という自分の強い思い込み(信念)から生じたものかもしれません。
また自分の中に貯まっていたものが臨界点に達していて、それを弥勒の印が最後の一押しをしてくれた可能性もあります。
水があふれそうで表面張力で保っているコップの中に、コインを一枚入れると一気にあふれ出す現象と同じです。
なぜこんなことを感じるかと言うと、ここ最近の大きな流れの中で、すべての出来事に有機的つながりを感じ、そのひとつひとつを分けて価値や評価を与えることが無意味のように思えるのです。
物理学における観察者効果、観察するという行為によって結果が変わる。
確率分布でしか示されない不確定なものが観察(観測)することによって確定する。
量子レベルにおける事象には真の客観性は存在せず、最も大切なのは観察者である自分自身の主観的思い、自分自身と観察するものとの関わりが重要です。
禅問答のような話ですが、究極の世界である量子物理学や、同じく究極の自然観であり最近とても興味を持っているタオイズムを突き詰めていくと、自分の外に懸命に目を向けることに違和感を覚えるます。
こういったことはなかなか言葉では言い表し難いものです。
別の言葉で言うならば、外の力を認めるからこそ内の力を信じることができる。
そしてまた逆も真なり、すべては自分であり、外なる世界も大いなる自己という認識です。
この二つのバランスが大切で、外に意識が強く向きそうになりそうな時ほど、内をしっかり見つめなければという思いが湧いてきます。
最近スピリチュアルに興味を持つ方たちと話していて、彼らの多くが真の自己を確立することではなく、我欲、小欲を維持し、それをいかに外世界で成就させるかということに執心しているように感じます。
内なる世界の現れである外なる世界を偏った目で見つめる限り、真我と出会うことはできません。
これもひとつの過程でしょう。
内なる世界は最も身近で最も遠い世界です。
外の世界の偉大さ不思議さを感じることで、内なる己の世界にある同様の価値を知る。
弥勒の印という外からの形を通し、内により目が行くようになった、これが自分の今の心境です。
こういった精神世界を探究し始めて四十数年、様々の人やものとの出会いからの数多くの不思議なことを体感し目にしてきましたが、それらはすべて己の内に存在するもの。
生きるとは、この己の偉大さに気付く旅ではないのか、今そのことを強く感じます。
そう感じられるようになったのも弥勒の印のお陰なのかもしれません。
取り止めのない文章ですが、真の価値は他人の言葉から知ることはできません。
自ら体感してみてください。
それが観察者効果で、すべての価値は自分が決め、自分の内にしか存在しません。
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