四十年ほど前、大学を卒業し社会人として第一歩を踏み出したのは、山陰・島根県の県庁所在地松江市です。
島根県の県庁所在地である松江市は、当時お隣鳥取県の鳥取市とほぼ同じ人口約13万人で全国最少。
現在は市町村合併で数字こそは増えているものの過疎化が進み、その分都市化の波にさらされずにすんでいるとも言えます。
山陰地方など日本海に面する地域は、昔は“裏日本”といういくぶん差別的な表現が用いられていました。
たしかに太平洋側の“表日本”と比べると地味であり、交通の便の悪さもあって発展から取り残されています。
同じ日本海側でも北陸地方は新幹線も通るようになりましたが、山陰側はいまだ取り残され、JRで松江に行くには岡山発の伯備線特急やくもで行くのが最も一般的で、個人的感想ですが、これがなかなかやっかいです。
岡山から倉敷、総社を通って松江の手前、鳥取の米子に至るまでは深い山並みの中国山地を通ります。
ここをかいくぐる線路は曲がりくねり、そのカーブを勢いよく走るため、特急やくもは車軸に対して車体が傾く振り子電車(車体傾斜式車両)という構造になっていて、この揺れがなかなかに気持ち悪いのです。
気のせいか、車内には清掃剤の匂いか何か独特の香りがあり、この香りが独特の揺れと相まって胸が悪くなるような不快感に一層拍車をかけています。
この不快感は本当にトラウマレベルで、松江駅近くを通ってホームからやくもの発車音が聞こえてくるだけで条件反射的に気分が悪くなるほどでした。
あれから三十年以上経ち、いろいろと改善されているのかもしれませんが。
そんなこともあって、自分の中で日本海側の山陰は、太平洋側とは隔絶された遠い世界だという思いが強くあります。
実際にそれが幸い(!)し山陰には昔ながらの日本の文化、風情、情緒というものが数多く残されています。
交通の便が悪いということは、他地域との人的・物的交流が少ないということ。
自分が暮らした松江市、島根県西部は出雲地方と呼ばれ、そこには山陰独特の名字の方が多くおられます。
安達、野津、門脇、景山、錦織、目次、江角、金築、宍道、・・・こういった名前を思い浮かべるだけで、夕日の映える宍道湖の景色、山陰の風景がまぶたに浮かびます。
暮らす人の顔貌にも特徴があるように感じました。
縄文・弥生でいえば明らかに縄文型、咀嚼器ががっしりした濃い顔立ちの方が多いのです。
これは沖縄やアイヌの人々とも共通した特徴で、なにか歴史的つながりがあるのだろうと感じます。
山陰地方の“陰”というのはやはり暗いイメージです。
山陰を「SUN-IN」などと書いたりもしますが、雨や曇天の多い日本海側気候の山陰地方はやはり陰という文字が合っています。
「弁当忘れても傘忘れるな」
これは出雲地方でよく語られる言葉であり、いつも雲がどんよりと立ちこめていることから“出雲”と名付けられたのです。
それでも、それだからこそ守られている出雲地方の文化は貴重です。
松江で最も有名で風光明媚な観光地は市内中心部にある松江城とその北側の塩見縄手です。
塩見縄手は松江城北側のお堀に面した道路沿い約500mに、武家屋敷など古の美観を保った建物が軒を連ねています。
その塩見縄手の一角に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の暮らしていた住居、今は小泉八雲記念館、ヘルン旧居と呼ばれる建物があります。
怪談「耳なし芳一」などで知られる作家・小泉八雲は、1850年にイギリスの保護領であるレフカダ島で生まれ、1890年に来日、その後松江、熊本、神戸、東京で暮らしたとされ、その当時の松江での住居を今も残しているのがヘルン旧居です。
ここは過去に何度も訪ねたことがあり、都会で失われた日本の風情を残す山陰松江の情景、それをさらに百年ほど遡るとこのヘルン旧居のような草木の香りがする昔の佇まいに戻るのだろう、そんな思いを抱かせてくれる文化財です。
その小泉八雲の随筆を、最近英語のテキストで目にする機会がありました。
日本語に訳すと『心 -日本の内的生活の暗示と影響』というものです。
ここでは自らの住まいでの一風景が描かれています。
概要はこのようなものです。
ある時、7,8歳の子どもを連れた天然痘の痕の残るみすぼらしく醜い女が、三味線を抱えて八雲の家の軒先に唄を唄いにやって来ます。
そうすると近所から若い母親、赤ん坊をおぶった使用人の少女たち、その他年老いた男女が集まってきました。
そんな中、玄関口で唄う彼女の口からは、どんな芸達者な芸者をも凌駕する深みがあって胸を打つ唄声が発せられ、聴く者の多くは静かに涙を流し、八雲自身も日本語の歌詞は理解できないものの、その響きに心打たれます。
そしてその女性は盲目であることに気がつきます。
これを読んで当時の情景が目に浮かびます。
これを書いた当時、小泉八雲が松江に暮らしていたのかどうかは分かりませんが、明治時代の日本ではこのような庶民文化がどこにでも残っていたのでしょう。
貧しかった昔の日本がすべてよかったとは言いませんが、あの当時、明治期の日本にあった人々の心のつながりといったものは今の日本が失ったものであり、この素晴らしき心の文化が継承されていないことは極めて残念です。
そしてこの文化、日本が失ってしまったこの文化が、自分が訪ねる南インドにはまだ残っています。
田舎の村には牛や羊、鶏たちとともに、赤ん坊から年寄りまで多くの人たちが身を寄せ合うように暮らし、幼い子どもが乳飲み子を抱えている姿もよく目にします。
インドは生きるには過酷な環境ですが、目の不自由な人、片腕をなくした人、歩くのが困難な人、そういった大きな障害を抱えた人たちも街中で懸命に暮らしています。
そして自分が外国人だということもあるのでしょうが、カメラを抱えて村にいると、みんな明るい笑顔で声をかけてくれて、道を歩くとバイクに同乗するよう誘ってくれることもよくあります。
この明るく逞しく、互いの心に垣根がない、自然と人々とが一体となった共生文化は、一言で言えば『生命輝く文化』と呼べるものです。
文化には様々な種類があります。
言語、住居、服装、芸能、食、そして身体、それぞれが根底で通じていて切っても切れない不可分なものであり、フラクタル(自己相似形)な存在です。
インドに行っていつも感じること、そしてインド人たちからもらう喜びの源は、この『生命輝く文化』にあります。
人間の生命は肉体に宿っています。
この肉体を健全に保ち光り輝かせるには、その器である身体を律する身体文化を守らなければなりません。
背筋を曲げ、日がな一日どんよりとした目で暮らす現代の日本人と、常に正しい姿勢を保ち明るい表情で日々パワフルに生きているインド人たちを見てこのことを痛切に感じます。
この身体文化を理想的に保つためには体育、その基となる健全な食育、食文化が不可欠です。
今の日本はこの身体文化が崩れ、それに伴って言語、教育、政治、倫理観といったすべての文化や価値観が崩壊しつつあり、その危機感をインドという外の国から日本を見ることで強く感じます。
すべての文化は通じ合ったフラクタルな関係であるかゆえ、その解決への道は容易ではありません。
けれどまた逆にひとつを懸命に取り戻すよう努力をすれば、他のすべての文化もまた復活してくるとも言え、それにはやはり根底の文化である食文化・身体文化の見直しが急務です。
これは昭和初期の日本人の禮儀作法を描いた動画です。
礼という字は旧字では「禮」と書くのですね。
礼とは豊かさを示すもの、背筋を伸ばした正しい姿勢と動作でもって思いを示す、これこそが豊かさであり本来の日本文化です。
この小泉八雲の随筆は「心―日本の内面生活がこだまする暗示的諸編」に掲載されています。
そういえば、先の自民党総裁選で敗れたのも小泉氏でしたね。
小泉八雲が遺し示してくれた日本古来の文化を、古い政治体制の象徴でもある小泉氏を破った高市氏の力で復活してもらうことを期待します。
















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