自然、生命と対峙する

今朝は国泰寺公園というところの公衆トイレの掃除をし、その後、広島なずなの会が出店しているマルシェに出かけました。

広島なずなの会 マルシェ

健康志向の安心・安全な野菜を中心に、調味料や加工品なども販売しておられます。

なにかいいものはないかな・・・と見回していると、昨日ついたばかりという美味しそうなお餅がありました。

広島なずなの会 あんころ餅

白とよもぎ、こし餡の入ったあんころ餅が三個入りで390円で、知り合いのお年寄りが昨日「あたしは餅が大好きなんよ」と話しているのを耳にしたばかりなので、その方にお土産と思い白の方をワンパック買いました。

自分はなぜか子どもとお年寄りとに相性が良く、初対面の子どもともすぐに仲良くなれるし、お年寄りの知り合いもたくさんいて、電話や手紙のやり取りをしたり、お家や施設をよく訪問したりしています。

女性は甘い物、そしてお餅も好きですね。
餅は食べると身体に水分を貯めやすくなり、寒くなり、皮下脂肪が必要となる冬場に食べるのが適しています。
ですから餅は太りやすく、ふくよかな陰性の体質を持つ女性が好むのです。

そのあんころ餅を持っていったNさんは、亡くなった母と同じ大正15年のお生まれですからもう相当のお年です。
膝が痛くて少し歩くのに不自由をされ、耳がいくぶん遠いものの、頭はしっかりしておられ、被爆者だったご主人を亡くなれた後も一人で一軒家に暮らしておられます。

今日のお昼はそのNさんのお宅で一緒にあんころ餅を焼いていただきました。
さすが広島なずなの会が販売されているものだけあって、とても自然な味わいです。
あんこも上品かつ控え目な甘さで美味でした。

Nさんは昨日の「菊の花」のH先生同様お花が大好きで、これまでお庭にたくさんの花を咲かせ、それらを撮った写真を一冊のアルバムにして差し上げたら、それを宝物のようにして毎日眺めておられます。

これがNさんのお庭の花です。
とてもキレイでしょ。

百合

玄関の花

桜の絨毯

そしてNさんの大好きなものがもうひとつ、それは可愛い動物です。(広島東洋カープも!)
Nさんご夫妻は昔自宅に併設したペットショップを営んでおられ、特に犬や猫が大好きなご様子です。

二年ほど前まではサニーと名前付けた黒猫が一匹いましたが、老衰で亡くなり、それ以降は自分の方が寿命が短いからと言われ、動物は飼っておられません。

その代わりと言ってはなんですが、自分がお家にお伺いした時は、YouTubeやTikTokで動物の可愛い動画を眺めながら一緒に楽しんでいます。

今日はたまたま可愛い小型犬ペキニーズの話題になり、そのペキニーズの動画を中心にYouTubeを二時間ほど見て過しました。

自分はペキニーズという名前を今日初めて知りましたが、ちっちやな小型犬、愛玩犬とでも言うのでしょうか、めちゃくちゃ可愛いですね。
ただそこらじゅうをはしゃぎ廻っているだけで愛くるしさ満点です。

特に一番可愛いのはエサを食べているところです。
仲間とともにエサに飛びついたり、食べたいのをバタバタしながらじっと我慢し飼い主の言葉を待つ姿には微笑ましくて頬が緩みます。

これは人間の子どもも同じです。
与えられた生命の炎を懸命に燃やしている姿、それを可愛いと感じ愛情を覚えるのは、自ら生存し、種を保存しようとする動物の本能なのでしょう。

そんな一心不乱にエサにかぶりついている犬の姿を見ていて思いました。
たくさん食べれば当然出るものも出るはずです。
その出るもの、犬のウンチは散歩の時にするのでしょうが、そんな排便の姿は当然動画で紹介されることはありません。

その当たり前のことが、昨日のH先生のことと結びついたのです。

生、誕生というものが喜びならば、その対極の死や老いという現実にもまた目を背けることなく喜びを持って迎えるべきだ、昨日はそう感じましたが、そのことに対して少し疑問が湧いてきました。

これはハレ(非日常)とケ(日常)のようなもの、生、誕生という喜びがハレの思いで華やかに受け取るべきものであるのに対し、死、老いという現実もまた、晴れがましくも喜ばしくもないものの、その悲しみや寂しさは忌み嫌って避けることなく、ひっそりと胸の内で受け止めるべきではないのでしょうか。

喜び、表に表す感情のみが善ではなく、また寂しさ、悲しさ、胸の内にひっそりと秘めなければならない感情もまた悪でも忌み嫌うべきでもないということ。
そういったものもまた人生に深みを与えるものと考え、一人で、時には誰かと分かち合いながら静かに受け止めるべきものではないかと、無邪気な子犬の動画を見ていて感じました。

そんなこと、わざわざ考え、言葉に現わすまでもないことなのかもしれませんが、今の日本人の暮らしは、本来日常の暮らしの延長の上にあるべき生命の誕生、その逆の老い、死というものが見えなくなっています。

昔は赤ん坊の多くが自宅で産婆さんに取り上げられましたが、今はほとんどが産科の診療所、病院で誕生の時を迎えます。

老いや死というものもまた同様で、老いた人の多くが老人専用の施設に入り、最期の時も自分の家で迎えるケースはごくわずかで、ほとんどの人は病院で死を迎えます。
そしてその葬儀も最近は自宅で行うことはほとんどなく、専用の葬儀場で営まれるのが一般的になっています。

そんな生死という人生最大の節目が日常から隔離されている日本に於いて、そこで暮らす日本人にまともな死生観が培われないのは当然のことです。

では昔がすべてよかったかというと必ずしもそうではありません。
まだほんの二三百年前の日本では、貧しさゆえに生まれてきた赤ん坊を育てることができず、やむをえず口減らしのために幼子の命を絶つということがあったと聞いています。
そして真偽の程は分かりませんが、その殺めてしまった子どもを弔い、記憶に残しておく意味で、こけし(子消し)というものがあるとのことです。

老いというのも貧村では重大な問題です。
そのため、老いてしまった肉親を、これもやむにやまれず山に捨てに行く “姥捨て(うばすて)” という風習があったというのも、たぶん事実だと思われます。

物質的に豊かになった今の日本、それに精神文化が追いついていないのでしょう。

人間の生き死にの姿とともに、身の回りの植物や動物、昆虫、農作物、そういった自然すべての生命の営み、循環し、共生するあり様が普段の暮らしの中からまったく感じ取ることができません。

はしゃぎ廻るペキニーズはとても可愛いですが、キレイに手入れされ、品種改良され、子どもを産んだり盛りがつかないように去勢されたり避妊手術をされているペットの姿は自然のほんの一部分、人間の都合でデフォルメされた生命の一断面でしかありません。

日本はこれから超高齢化社会を迎え、老いや死といかに直面するかという課題はより重要になってきます。

それに何らかの答えや解決策を見い出すためには、自然、生命というものに、日常の生き様そのものでより真摯に対峙していく他ないものと感じます。