平和への思い

毎年この暑い8月は平和を深く思う時です。
昨日6日は広島に世界初の原子爆弾が投下された日であり、9日は長崎、そして15日は終戦記念日です。

平和という言葉が日常語になっている広島にいても、やはりこの8月は特別です。
いろんなところで平和のイベントやコンサートなどがあり、世界各地からたくさんの人が広島を訪れ、平和の祈りを捧げられます。

広島平和記念公園は、この春に原爆資料館がリニューアルを終えて全面オープンとなり、資料館横を流れる元安川にかかる平和大橋も、狭かった歩道部分が拡張されとても通りやすくなりました。
今はまだ資料館の下はフェンスで覆われ、耐震補強工事が完了していませんが、それも近日中に終了し、さらに環境は整えられることでしょう。

平和公園の環境は少しずつ工事でよくなっても、“原爆体験を語りつぐ”という、広島の大きな役目、その中心を担うべき被爆者の方は、年々高齢化が進み、その数が少なくなっています。

自分が広島に来たのは今から29年前、当時はまだ身近なところに原爆の記憶をしっかりと残す被爆者の方たちがたくさんおられました。
けれどそれから三十年近い時が経ち、今周りで直接被爆体験を聞かせていただける方というのは、ほんの片手で数えられるぐらいになってしまいました。

これまでこの広島で原爆や戦争に関する話を数多く耳にし、またその資料となるものもたくさん見させていただきました。
そしてその中で最も心に響くのは、やはり原爆を直接体験された方の言葉です。
理屈ではない、
「もうこのような悲惨なことは二度と繰り返してはならない」
という体の底から絞り出すようにつぶやかれるその思いです。

その上で今願うこと。
それはその言葉、その思いを次の世代の人間がいかに継承していくのか、形は変ってしまっても、それぞれ自分たちの世代にできる平和への思いを形作っていきたいということです。

そしてもうひとつ思うのは、広島という20世紀最大の“事件”が起こったグラウンド・ゼロの地に暮らし、その過去の遺産から脱却し、この地だからこそ創造し、提言できる未来へのビジョンを発していきたい、そのことも強く思います。

三年前、原爆を投下したアメリカの、現職大統領として初めてオバマ氏が広島を訪れ、平和公園で手を合わせ、被爆者の代表の方と熱い抱擁を交わされました。
これは広島のみならず、日本、世界にとっても大きなひとつのターニングポイントであったと思います。

原爆が投下された当時の広島は軍都ではありましたが、多くの普通の人々が暮らすひとつの都市であり、原爆の閃光によって15万人とも言われる罪のない多くの民間人が殺害されました。

『勝てば官軍』の諺通り、戦後アメリカ軍がこのことによって罪に問われることはありませんでしたが、これは常識的に考えて極めて大きな戦争犯罪であり、当時の国際法違反行為です。

それにも関わらず、その七十数年後、現職アメリカ大統領を旗を振って大歓迎で迎えるというのは、ちょっと異常な精神構造だと日本人の心のあり方を揶揄する意見もあり、それはそれで的を得た正論だと感じます。

けれどどの様な事柄にも裏と表があり、日本人の素晴らしい精神文化のひとつが、性善説、罪を憎んで人を憎まず、水に流す、といったものであり、過去がどうであれ今と未来を見つめ、より建設的な関係を築きたいという思いは、とても誇るべきものだと感じます。

またアメリカ軍が原子爆弾投下によって犯した大きな罪は、アメリカ自身の手でそれを償うことはできません。
それを許す(赦す)ことができるのは、それによって大きな被害を受けた日本であり、被爆者の方たちだけなのです。

非好戦的であり、許す(赦す)文化、和の文化を持つ日本が、歴史上他国に侵略されることなく長く国体を維持することができたのは、他国と海を隔てた島国であるということと、一定の文明水準を維持してきたからだと思われます。

けれどこれから世界の他の国々と対等に渡り合っていくためには、今持っている母性的な文化だけでは不十分です。
母性とは対極の父性、より厳しさをもって他国と接する文化がなければ、他国を増長させ、自国の権利を侵害されることになってしまいます。

現在韓国を輸出管理のホワイト国から除外したことで、韓国との関係が大変なことになっています。
これは戦後日本が対外的にとった初めての厳しい措置であると言われていて、現在迫り来る隣国からの脅威に打ち勝つためには、今回のような厳しく、かつ厳粛な措置が必要不可欠であると考えます。

対他国との平和な関係は対人関係と同じです。
母性的な優しさとともに、父性的な厳しさも同時に求められます。

平和は、言葉だけで簡単に築けるものではありません。
広島では様々な平和活動があり、自分もできる範囲でそれら活動に参加していますが、どれもかなりの労力を要するもので、片手間にできるものではありません。

数年前までパンフレットを作ったり動画を作成したりという形で参加していた広島かがり灯プロジェクトに、今年は知り合いからどうしても人手が足りないという声を受け、再び参加することにしました。

一昨日、広島原爆記念日の前夜、原爆ドーム前の元安川に25灯のかがり灯を灯しました。

当日までに何回も会議で集まり、準備をし、自分は主要メンバーから外させてもらったのでもっぱら聞くばかりですが、役をもって事に当られた方たちは本当に大変だったと思います。

当日は机や椅子といった荷物を積んだトラックを運転して会場まで行き、自分は原爆ドームすぐ横のおりづるタワーというところで、日中は物品の販売とチラシ配りをさせてもらいました。
夜はかがり灯を見学し、写真を撮り、終了後は十数名でかがり灯を載せたいかだの撤収作業をし、それが完全に終わったのが午後11時半でした。

浴6日の朝刊は、全国紙を含めた各新聞がこのかがり灯の写真を一面にカラーで報じてくれて、暑い中苦労したことが少し報われた思いです。

5日の日は一日外で過ごしたので、腕や顔がかなり赤くなるまで日焼けしてしまいました。
水分もどれだけ飲んだか分かりません。
それでも風呂上がりには前日よりも体重が減っていたので、相当量の水分が体から抜けていったのだと思います。

このかがり灯に限らず、原爆の日に向かって行う平和活動は、大量の汗と労力を要するものです。
けれどこれもひとつの体験です。
74年前の8月6日、原爆で焼けただれた多くの人たちは、手の指先からはがれ落ちた皮膚を垂らしながら「水をください」と言い、焼け野原を彷徨い歩き、市内を流れる何本もの川には多くの人たちの亡骸が流れていたそうです。

今から45年前、1974年の8月9日、広島県立総合体育館で広島平和音楽祭が開かれ、そこで美空ひばりが「一本の鉛筆」という歌を披露しました。

その時、多くの歌手が集まった控え室にはクーラーがなく、室内はうだるような暑さで、大きな氷柱を持ってきて立ててもすぐに溶けるほどだったそうです。
そのあまりの暑さに耐えかねてある歌手が文句を口にした時、美空ひばりはこう言いました。

「あの日原爆を受けた人たちの暑さは、こんなもんじゃなかったでしょうね」

このひばりの一言で、誰も文句を言えなかったとのこと、さすがひばりです。

平和についてはいろんな思いがあり、とても簡単には書き切れません。

今書いていて思ったのですが、美空ひばり、やっぱりすごいです。
彼女の生き様は歌にそのまま表れています。
だからこそ『ひばりの前にひばりなし、ひばりの後にひばりなし』と言われるほど傑出した存在なのです。

そして平和に限らず、本当に大切なメッセージを伝えられるかどうかというのは、その体験を芯から共有できるかどうか、それだけの生き様かどうかということだと思います。

それがすべてではありませんが、それが極めて大切です。