自分を愛する

憂歌団

エセ・コロナ禍が蔓延している昨今、どうしても心が沈みがちで、そんな時には心癒す音楽を聴きたくなります。

最近はCDを直接聴く機会はほとんどありません。
YouTube、もしくはYouTubeからダウンロードしたものをパソコンから聴いたり、特に気に入ったCDをMP3データにしてiPadやスマホを通して聴いています。

手持ちのCDでMP3データにしているものは一部ですが、その中でも最近は懐かしの憂歌団をよく聴いています。
憂歌とはブルースのこと、結構泥臭い浪速のブルースを奏でるバンドです。
結成が1975年ですからレコードの時代が全盛期です。

代表曲のひとつがこの「胸が痛い」、収録されたアルバムによっていくつかバージョンがあるようで、いつも自分が聴いている上記アルバムのものとはちょっと違います。

彼らの曲はかなり破天荒なものが多く、ライブでこの「胸が痛い~♪」と歌っていると、「ほな医者行けや!」なんてヤジが飛ぶ雰囲気で、そんなフレンドリーなところが彼らの魅力です。

憂歌団をよく聴いていたのは今から四十年近く前で、その後CDを買い、今あらためて聴いてみると彼らの歌声が心にしみてきます。

温かい気持ちになれるというか・・・、ベタな言葉では言えば愛、それを感じるのです。

 

愛とは何でしょう。
愛(アイ)とは、アは明ける、開く、遠くの人に向かって「ア~」と叫ぶように発散する音、イは生きや息、命を表します。
つまり愛とは命を発散することです。

ギリシャ哲学的には肉体的なエロスの愛と崇高な神の愛アガペー、この二つがよく言われます。

自分は憂歌団の歌を聴いていて、あのだみ声とラフな演奏の裏になぜか深い愛を感じます。
それは他人への優しさといったものよりももっと深い本質的なもののように思えます。

 

憂歌団が現役バリバリに演奏をしていた当時、ギター雑誌に彼らのインタビューが載っていました。
ギターはボーカルを兼ねた木村充揮と内田勘太郎の二人で、主にアコースティックギターを弾いています。

デビュー数年後、もうすでにマニアックな人気を得ていた彼らの使っているギターは一本一万数千円の安いもので、二人の持っていたギターをそれぞれ交換して使っていると話していました。

アコースティックギターといえばマーチンが有名です。
たぶんプロの半分以上はマーチンを使っているのではないでしょうか。
音がいいのは当然で、値段も当時で一本二十万円以上はしたと思います。

ではなぜ彼らはそんな安いギターを使い続けているのか、そのことをインタビュアーが尋ねると、
「そりゃあマーチンの高いギターを使えばいいんだろうけど、いい音が出るようになるまでには時間がかかるし、今はこのギターでそこそこいい音が出てるから・・・」
みたいなことを語っていて、その囚われのなさに驚きました。

彼らの音、そのスタイルの魅力はこの気取りのなさです。
今世間ではこんなのが流行っているから、こうすれば受けるから、・・・そんな周りに媚びへつらうようなものがまったく感じられません。

あるのはただ自分たちが好きだから、やっていて楽しいからする、これだけです。
この好き放題に自己を表現する世界、それが彼らにとってのブルースであり憂歌なのでしょう。

 

あの頃から四十年近く経ち、あらためて彼らの歌を聴き、そこはかとなく胸の奥から湧いてくる温かさを感じ、本当に深い愛とは自分を愛すること、自分自身を認めるところからはじまるんだということを理屈抜きで感じます。

そしてそこで感じる愛とは他人に向けるものよりも深く、自分の内とまったくの対極の外なる絶対的なもの、神、自然への崇拝、そういったものに通じるように感じます。
「つながる世界」でも書いたように、極小、極大、両極端の世界には相通じるものがあるのです。

Everything Great

『自分を愛する』この大切さを憂歌団の歌を通して教えてもらいました。

エセ・コロナ禍、人によってはコロナ詐欺と呼ぶこの事態の中、多くの人が政府やメデイアの流す恣意的情報に右往左往しています。

こうなってしまったのは、やはり現代人が周りの情報をキャッチすることには長けていても、自分自身の考えを持ち、自分の価値観を大切にするという生きる上での“基本”の部分が欠けているからに他ならないからだと考えます。

自分を深く愛すること、その上で、
「ボクァ~幸せだな~♪」心の底からそう呟きたいですね。