感謝を綴る

感謝

誕生日から忙しい日が続き、三日経った昨日19日、ようやく生まれてから今日までの嬉しかった出来事、感謝すべきことを綴り、それに思いを馳せることをスタート(!)できました。

この感謝行は実に奥が深く、簡単にできるものではありません。
生まれた時からの感謝の思いを言葉にしていくと、もうそれだけで胸が一杯になってしまい、ペンが止まって前に進まなくなってしまうのです。

 

仏教の流れの修養法のひとつに内観法というものがあります。
文字通り自分の心の内を見つめていく方法で、自分の知り合い数名は各地にある内観道場に一週間ほどこもり、その間ずっと自分の過去を振り返る行をしてきたそうです。

内観道場では同時に参加した人たち同士で会話をすることなく、ただ導師とでも呼ぶのでしょうか、内観を導いてくださる方に何を内観するかを示してもらったりする問答以外は一人で部屋にこもって内を見つめるだけとのことです。

このたびこれまでの感謝すべきことを振り返り、これは完全に内観道場で求めているものと同じなのだと感じました。

 

感謝すべき事を生まれた時から順番に書いていくと、まず最初に書くのは61年前、この世に生を授けてくださったことに対する感謝です。

この生を与えていただいたことに対する感謝は、いつも湯船に浸かりながらルーティーンのように行っていますが、やはり言葉を文字として記し、それを目に入れてから行うと深みが違いますね。
自分の思いが熱い波とともにタイムマシンに乗って生まれた時に引き戻されるかのような感覚を覚えます。
これは全身がとろけるような最高に心地いいものです。

この時意識するのは全身の細胞です。
頭では忘れたものも体中の細胞は記憶している、そう潜在意識が感じているようで、無意識のうちに全身60兆個ある細胞のひとつひとつに意識が向き、だからこそ全身がとろけるような感覚が湧いてきます。

ひとつひとつの細胞が生命を支える原点ということなのでしょう。
この感覚は、母が最期の時病院の集中治療室に入っていて、日中外の待合室で時を過しながら太陽にお祈りし、その太陽が今も変わらず輝き続けているという事実から大宇宙の時の長さ、普遍性を感じ取ったその感覚と似ています。

けれど実際は、人体を構成する細胞は動的平衡を保ち、数年単位で入れ換わると言われていて、細胞に誕生の時から今に通じる普遍性を求めることはおかしなことなのでしょうが、理屈はともかく、感覚がそれを求めるのです。

これは“うなぎのタレ”と同じかもしれません。
長年続く老舗のうなぎ屋は、開業当初から使われているタレに原料を継ぎ足し、伝統の味を保っています。
物質的にはタレの原料は短期間ですべて入れ換わってしまいますが、そこに生きている菌は先祖代々のものであり、その貴重な菌が味を保つための財産です。

ですから人体の細胞がすべて入れ換わったとしても、そこに刻まれているDNAの情報は生来のものがほとんどであり、またそれは両親やご先祖様から受け継いできたものなのですから、生命の原点を振り返る時、そこに意識が向くのは自然なことだと言えます。

ちょっと理屈っぽいですが、そんなことを感じました。

遺伝子DNA

 

幼い頃の記憶を辿る、これは心の旅ですね。
心の中で生まれ育った場所を思い出し、そこをゆっくりと歩き回ってみます。
そして出会った人、出来事に対し、心の中で「ありがとう」「愛してます」と唱えながら進んでいきます。

先に「文字として記すから効果がある」と書きましたが、実際に目を閉じた状態で心の旅を続けていくと、瞑想をしているようでただ心地よく、その間思いついたことをひとつずつ紙に書き記すことは不可能です。

ここがちょっとジレンマなのですが、歩いて前に進む時、右足と左足を交互に出していくように、ただ一歩ずつ、思いと文字との関わりを気長に続けていくのがいいのだなと感じます。

 

その日一日の感謝の思いをノートに綴る「感謝ノート」も以前書いたことがありますが、自分の場合はマンネリになってしまい、真に感謝するべき思いを書くことができず挫折してしまいました。
もちろんこれが合うという人もいると思います。

自分にとってはこの生まれてから今までを振り返り、その限りなく長い時の中の一部に焦点を当て、そこでの出会いや出来事に感謝の思いを送るというスタイルが合っています。
何より自由を愛する人間ですので・・・。

 

少し前から「ありがとう 愛してる」を口癖のようにつぶやくようになり、そして今回生まれた時からの歩みに感謝の思いを献げ、自分の中で少し気持ちにゆとりができ気が長くなったこと、さらに幸不幸の波間で揺れる気持ちの底上げができたように感じます。

人間は誰しも長く生きていると、与えられた環境や条件がすべて当たり前のように感じられるようになってきます。
けれど世界には今日の食べ物に不自由している人たちが大勢います。
また食べるものが目の前にあっても、胃ガンの手術をした人などは、それを飲み込むのに激しい苦痛を感じるそうです。

自分はインドの貧しい子どもたちと接する中で、いつも当たり前の日常に深い喜びがあることを感じ取らせてもらうのですが、やはり日本に戻ってくるとそのことが記憶から薄れてしまいます。

幸せとは感謝すること、当たり前と思っていることが本当は素晴らしい価値を持っていることに気づくことなのだと思います。

感謝