愛ある批判

感謝

一昨日の「福祉サービスを考える」で、重い障害のある伊昰名夏子さんの意見に対し批判的なことを書いたことが心に重く残っています。

SLやまぐち号

批判というのは相手の人間性を全面的に否定するものではなく、相手の持つ考え方をひとつのキッカケに、よりよい考えや方法を求めていくために必要なことだと考えています。
それでも障害を持っている社会的弱者とされる方にもの申すのは心地いいことではありません。
けれどそんなことを忖度し自己規制したならば、それは相手を対等と見ずに見下げていることになるのではと考えます。

 

批判はよりよいものを求めるひとつの重要な方策であり、またそうならねばなりません。

10年前、2011年の東日本大震災では福島第一原発が津波による極めて大きな被害を受け、日本のみならず周辺国にも大きな影響を与えました。
この事故の原因は津波という天災だけではなく、ずさんな安全管理体制によって導かれた人災の面が大きくあったことは事実であり、これは厳しく非難されるべきです。

けれどその非難があまりにも行き過ぎて糾弾となった場合、本来求められる反省、対策、改善というところから逸脱し、証拠隠滅、回避に向かってしまう可能性があり、せっかく大きな犠牲を払った事故で得ることができるはずの数々の教訓が得られなくなるばかりか、問題が起こった本質をより深い場所に隠してしまうことになりかねません。

福島第一原発事故は原発の安全管理技術がより向上する機会となったはずですが、本当にそうなったのでしょうか。

福島の事故によって原発そのものが大きく非難を受け、原子力工学を学ぼうとする学生が激減し、研究費も大きく削られたと聞いています。
これをキッカケに原発を全廃し、代替エネルギーにすべて切り換えられるのであればそれはそれで問題ないのですが、まだ原発に依存しなければ経済、工業が回っていかない日本の現状では、この事故の責任を追及すると同時に、それと同じ力量で技術発展への道を進んでいくことが求められます。
けれどあれから十年、現実はそうはなっていないように感じられます。

 

伊昰名さんの本当の思いというものは、きっと同じ立場にならなければ理解できないでしょう。
けれどそれは彼女だけではなく、どんな人もみな立場や感じ方が異なり、異なるからこそ互いの意見を素直に述べることが大切です。

ここで大切なのは、互いに建設的な意見を述べ合うということです。
ただ強行に自らの考えだけを主張していては相手への憎しみが生まれ、いい結果を得ることはできません。

このたびの伊是名さんの騒動では正直言って、彼女の訴えていることは強行すぎると思います。
JRに無人駅があるというのは、JRも民間企業であって収益性を考えなければならないからであり、もしすべての駅で当日の申し入れで、重い電動車椅子を担いで階段を上り下りさせるだけの人員を日常的に確保したり、またエレベーターを設置するためにはどれだけの財源が必要でしょうか。
言いにくいことですが、福祉にも当然費用対効果を考えるべきです。

今回のことで最も気になるのは、彼女の強い姿勢に対し、逆に強い反発が起こっていることです。
このことによって他の障害を持たれている方が萎縮をし、何か介助が必要な時にそのことを口にしにくくなってしまうかもしれません。

また障害を持つ方はより強く意見を言うべきだという風潮になれば、先のページにも書いたように、圧力団体やクレーマーにイヤイヤ接するような形になり、それはとても不幸なことです。

それでもやはり意見を発すること自体は貴重です。
日本人は討論(ディベート)が苦手だとよく言われますが、これを機会に互いに歩み寄りながら建設的かつ融和的に話し合う術(すべ)を学んでいくべきだと考えます。
これからの日本にとって福祉の問題は極めて重要ですので。

 

自分も何事もハッキリと物事を言う方です。
特に今は人類の未来を左右する重要なエセ・コロナ禍の問題が広がっています。
ここで口を閉ざすわけにはいきません。

現在のコロナ騒動が偽物であるという事実は、自分の回りでも多くの人が気がついています。
けれどその大部分の人が自らそのことを発信せず、またその術をもたず、ただ世間の流れの中に佇んでいるといったことが現状です。

この世の中すべてのものに絶対善、絶対悪はありません。
このたびのエセ・コロナ禍は、人類が大きく飛躍するために欠くことのできない試練であり、ここから学び、反省できることが多くあります。

その大きな反省点となることのひとつが、日本人は回りに忖度し、自らの意見を述べないこと。
人と違ったことをするのを嫌い、回りと同調しようとすることです。

ですから自分はあえて回りから疎んじられても自ら正しいと思えること、多くの人の真の利益になると思えることは、積極的に発するようにしていて、そのひとつが前項『「エセ・コロナ禍」を問う活動』に載せた毎週出席している積極人間の集いの参加者に対する文章です。

エセ・コロナ禍の真実

その中で、原田琢氏の記事でも引用していただいたこんなメッセージを書きました。

今はまだコロナの感染が恐ろしい、大勢で飲食すると死者、重症者が増える危険性がある、そう考えておられるのなら外での飲食を控えるのは賢明な判断です。

けれどもし今のコロナ騒ぎに疑問を感じ、「コロナは通常のインフルエンザ以下の弱毒性である」という事実を知り、それでも世間の目を考えて自粛するべきだと考えているのなら、それはとても積極的姿勢とは言えません。

花見とは秋の実りを願う『予祝』であり、今こそ根拠なき風評被害を受けて苦境に立たされている飲食業、サービス業の方たちを応援し、流れを変えていくことに極めて大きな意義があると考えます。

それでも「回りがみんな自粛しているから・・・」「他の人たちがするようになってから自分たちも・・・」と考えているのであれば、それは積極人間ではなく、消極人間、忖度人間の姿勢だと考えますが、いかがでしょうか。

これは皮肉、攻撃的な言葉であると言えなくもありません。
けれどこれは本音であり、最も伝えたいメッセージであり、これを読んで例え相手が気分を害そうが、このことについて考えてもらうことはその人の益になると考えます。

 

このホームページでマザー・テレサの言葉を何度も引用しました。
『愛の反対は憎しみではなく無関心である』
これは自分の座右の銘にしたいほど大切にしている信条です。

マザー・テレサ

今こそ日本人が自らの殻を突き破り、真に愛を体現し、真実を広めていくべき時だと信じます。

伊昰名さんへの批判の言葉も、自分は彼女への愛の形のひとつだと考えています。
そして彼女とは異なった立場と考えで、彼女と同じくよりよい福祉サービスのあり方を考えていきたいと思っています。

 

今は『岩戸開き』の時です。
黙っていては天の岩戸は開きません。

天宇受売命(アメノウズメ)のように、明るく踊り、行動していきましょう♪

天宇受売命