復活

復活

世界中がこのエセ・コロナ禍で大変な状況になり、多くの人が塗炭の苦しみを味わっています。
けれどそんな中でも、これを商機とビジネスを拡大し、売り上げを伸ばしているところがあり、ネットにもよくそんな事例が紹介されています。

また形としてのピンチは乗り越えられなくても、そこから何か学び、大きな人生の糧を得ている方もおられ、

過去や自分の回りは変えられない、変えることができるのは未来と自分だけ
価値はそのモノ、コト自体ではなく、それを自分がどうとらえるかという中にのみ存在する

この事実を見据え、悲しみ、苦しみを乗り越えること、また簡単には乗り越えられなくても、それを乗り越えようと試みる中で感じるもの、そこに価値があるのだと信じます。
またそう信じることが、将来に向けての幸せに通じるのだと考えます。

 

今日3月11日は東日本大震災からちょうど十年となります。
戦後日本最大級の災害で多くの命が奪われ、多くの人の心に今も深い傷を残しています。

直接被害を受けていない自分に多くを語ることはできませんが、亡くなった人を弔い、過去の思いを癒す最高の方法は、今生きている自分自身の命を最大限に光り輝かすことだと考えています。

自分は自らの体験から人間の魂は永遠であるということを知っています。
それは過去何度もの体外離脱の体験と、「母の愛」に書いている母から死の前後に伝えてもらったメッセージによるものです。

母が亡くなった1995年は阪神淡路大震災のあった年です。
母が亡くなる直前、母を見舞って広島に戻る途中に母の故郷であり、震度七で大きな被害を受けた西宮市一帯を歩き、形としての命の儚さを知り、その後母から永遠の生命である魂の尊さを教えてもらいました。

 

いのち、命、生命、・・・命とは何でしょうか。
肉体としての命は百年あまり、魂として命は永遠です。
強く信じ大切にしているものを命とすることもあり、また何かの価値の存在を “いのち” と称することもあります。

人によって命の感じ方、重きの置き方は様々だと思います。
自分はたぶん生まれ持った魂の特質だと感じますが、有限である肉体的命よりもどうしても永遠の命である魂の方に心が傾いてしまい、男だから、何歳だから、こういう立場だからといった枠組みにまったく鈍感というか無頓着で、社会的立場というものと関係なくついつい自由に振る舞ってしまいます。

ですから必ずやって来る肉体の死を恐れる気持ちはあまりありません。
ただ死ぬまでにやるべきことはやらなければ後悔するというプレッシャーと、死の扉をくぐることに対する多少の恐怖心は持っています。

けれどその恐怖心は、体外離脱で感じた澄み切った空間に対する憧れと比べると微々たるもので、人はそのことを知ってしまうと生への執着が薄れ、今世でまっとうすべきことができないため、死後の世界は深いベールに包まれ、死の扉への恐怖心を与えているのだと思います。

なので自分の死生観は他の人とは少し異なり、死という別れは寂しいものですが、死は永遠の別れではなく、いったん別々の生を歩む新たな旅立ちといった感覚があります。

 

先日観た素晴らしい映画「天から見れば」、両腕を亡くした南正文さんと大石順教尼の物語です。

南正文さんは事故で両腕を亡くし、中学生の時に同じく両腕のない大石順教尼と出会い、弟子入し、その後数年間大石尼から口で筆をくわえて絵を描くことや様々なことを学んでいくものの大石尼は寂滅され、その後はその教えを自らの中で育んでいかれました。

そのことを石川洋氏は、

『終わりから始まる 終わりなき縁』これを『復活』と言う

と語っておられます。
(動画の中では3分過ぎから)

石川洋

これぞ永遠の命、その人の存在という命が周りの人の心の中に永遠に生き続けます。

 

命の捉え方は何が正しいというものはないと思います。
自分はその中で、縁あって感じ取った魂の永遠性を伝えていくことが与えられた役割と感じています。
ただこれは真理ではありますが、あくまでも真理の一側面であり、絶対にこう感じるべきだとは思っていません。

震災から十年経ち、十年前のあの日のことを振り返り、そこから様々なことを感じ、思いを馳せるのが “偲ぶ” ということであり、それが広く被災されたみなさんに通じていくものだと感じています。

 

今のこの日本、世界の難局をどう乗り越えていくのか、それが過去の人たちから命のバトンを引き継いで生を受けた今日生きている人間の使命であり、それをしっかりと果たしていくことが、バトンを手渡してくれたこれまでの人たちの生を光り輝かせ、その生、命の価値を高め、復活させることになるのだと信じます。