公衆トイレ掃除 心もピカピカに

トイレ掃除

広島では毎月第二土曜日に公衆トイレ掃除の会を行っています。
参加者は少ない時は三、四名という時もありましたが、最近は高校生たちを含め多くの方が参加してくださり賑わっています。

昨日は広島現代美術館やマンガ図書館がある市内中心部の比治山の公衆トイレで行いました。
一帯が自然林で囲まれた比治山の中心部に広島現代美術館があり、その周囲にある塀の一角を掘り込んで作られたトイレが会場です。

トイレを掃除していて一番辛いのは、ひどい汚れを目にした時ではなく、冬場の水の冷たさです。
真冬の水の冷たさは数分で手の感覚を麻痺させ、冷たいというよりも痛いという感覚です。

ところがこの広島現代美術館の公衆トイレは水道管が地下に埋設されているからなのか、井戸水だからなのか、真冬でも生暖かいと感じるぐらい水温が高いのです。
ですから最も寒さが厳しい真冬の二月は毎年この広島現代美術館のトイレを会場にしています。

昨日は地元広島の山陽高校、比治山女子高の生徒さんたちが参加してくださり、総勢23名、とても大規模な会となりました。

またこの日は中国新聞の記者さんが取材に来てくれて、翌12日の朝刊にこのような記事が載りました。

中国新聞 トイレ掃除

トイレ掃除は無心でするものです。
「これをすれば・・・になれる」などといった欲得の感情はまったく湧いてくることがなく、この雑念のない無目的の行為がいいのだと感じます。

公衆トイレの汚れは他人がつけたもの、それを掃除する義務はありません。
だからこそそれをすることは普段とはまったく異なった心の境地へと引き入れてくれて、特に最初にこの掃除を体験した時はいろんな感情が湧き上がってきました。

これを体験するまでは、「自分の家の掃除ですら完璧ではないのに、他人が汚した便器を掃除するのは優先順位が違う」と頑なに拒否していましたが、一度体験してみて、家の掃除と外のトイレ掃除はまったく意味合いが異なるということが理解できました。

そんな当初の思いを、若い参加者、初めての参加者とともに体験すると思い返すことができます。
十代の高校生が無心に、ただ懸命に素手で便器と向き合っている姿は感動を呼びます。

掃除は強制ではありませんが、素手で行うのが原則です。
今回初参加の女子高生たちも用意していたビニール手袋は使わず素手で行っていました。

掃除は汚れを落とすというよりも、ピカピカに磨き上げるといった感覚です。
この時の境地は無我夢中、鏡のように真っ白な便器に自己を投影し、そこに映る自分の何かと対峙するような心持ちです。
そしてこの心境を真正面から感じ取るためには、自分と便器との間にビニール手袋を介在させない方が自然であり、自分は一度もビニール手袋を着けたことはありません。

インドでの食事は箸やナイフ、フォーク、スプーンなどは使わず、直接手でつかんで食べるのが日常の作法です。
自分もそれに習ってインドでは手で直接食べ物をつかんで口に運びます。
インドの食事はエネルギーに満ちた旬の自然な食材を使っていて、命をいただく食事という行為は直接手で行うのが自然で理に適っていると、インドでいつも感じています。

このインドでの手づかみの食事と素手で行うトイレ掃除は、自分の中ではほぼ同じ感覚です。

 

トイレ掃除の会では便器だけではなく、トイレの回りすべてをきれいにし、磨き上げていきます。
即日は参加人数が多かったので、排水溝の中にも手を突っ込んで汚れをきれいにかき出しました。

その他壁もぞうきんやタワシを使ってキレイにし、掲示物を貼るためのテープの跡なども丁寧に落としていきます。
自分はゴミ袋を持って周辺のゴミ拾いをし、約一時間で袋三つ分のゴミを集めました。

汗を流し、掃除を終えた後の清々しさは何ものにも変えられない最高の宝物です。

何度も続けてする必要はありません。
たった一回でいいので是非この公衆トイレ掃除という非日常の感覚を味わってみてください。