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石丸現象から考える

石丸伸二

またまた長らく更新期間が空いてしまい、いろいろ思うことがあります。

ひとつは自分の特性で、人に頼まれ喜ばれることは積極的にするのに対し、自分のことではなかなか動けません。
元来文章を書くのは好きでこの間も他所のサイトには文章を書いても、自分のサイトは放置状態になってしまいました。
そして期間が空くとその分いいことを書かなければというプレッシャーが強まり、より一層キーボードを打つ手が止まります。

もうひとつは、これが極めて大きな要因なのですが、入りと出のバランスが崩れてしまったということ、つまり日々いろんな情報を入れすぎてしまい、それをアウトプットすることができなくなったということです。

生きるための栄養補給で食事をたくさん取ると運動するためのエネルギーが蓄えられますが、食べ過ぎると体が重くなって逆に動けなくなってしまいます。
これがメタボであり、情報化社会の今は食に限らずすべての分野で入る方が過多となり、それゆえに多くの人に断捨離が求められます。

今というこの文明の大転換期、日々刮目すべきニュースにあふれ、それを追うだけでもあっという間に時間が過ぎてしまい、気がつけば未消化の情報が頭の中にあふれてしまっています。
まさに情報メタボであり、自分を活かすべきはずの情報が、逆にあふれて主人となり、情報の奴隷となってしまったかのようです。

 

そのことに気付くキッカケとなったのが、七夕に行われた東京都知事選挙、石丸伸二候補に対する世間の評価です。

石丸氏が立候補するまで市長を務めていた安芸高田市は、同じ広島県内であり馴染みのあるところです。
そこで話題となっていた市議会とのやり取りはわりと早い時期から注目していました。

石丸氏の論理(ロゴス)を前面に出し、正しくないと考えることを徹底的に論破していくやり方は、まったく融和的ではなくて逆に対立を深めるだけであるという意見もあり、それはよく理解できます。
けれど石丸氏の狙いは安芸高田市議会だけではなく、たぶん全国多くの市町村議会で同様であろう馴れ合いの空気を正すため、意図的に劇場的振る舞いをしてネット拡散による注目が集まるよう仕組んだ面もあるのだろうと考えます。

そして都知事選の選挙活動中、活動後も、様々なメディアや論客によって石丸評が語られましたが、自分としては意外と否定的意見が多いなというのが感想です。
その否定的意見を発している例えばデイリーWill、文化人放送局、政経電論TV等々の保守系メディアはこれまで信頼し聴いていたチャンネルであり、それらがこのたび初めて自分と大きく異なる見解を出すのを受け、それを頭の中で整理し、自分はこれまでそこから入る情報を自己解釈と判断で取り入れてきたつもりだったのが、本当は咀嚼せずにただ丸呑みしていたのではないかと思わされました。

入ってくる情報は多ければ多いほど正しい判断ができるというのは幻想です。
ひとつひとつをしっかりと解釈して自分の中に取り入れるのには時間がかかります。
それを急げば未消化となり、特に客観的事実という一次情報ではなく、主観の入った二次情報を大量に入れるのは危険です。
そのことを今回強く感じました。

 

量子力学的には観測することによって事実が決まり、究極的にはこの世は主観的世界ともいえるわけで、その上で主観というものは人によって実に様々だということを感じざる得ません。

放送事故と言われたReHacQの石丸氏と東京都の公金チューチュー問題を世に出した暇空茜氏と対談では、暇空氏の人間的未熟さと野卑さ、石丸氏の冷静さが印象的で、自分としては石丸氏に好印象を持ち、コメントにもそういった意見が多く書き込まれていますが、これにしても人によっては石丸氏攻撃材料とする人がいます。

人のものの見方(主観)は様々ですが、石丸騒動でそれをより深く理解しました。

 

今のこの極限まで混沌とした閉塞感が漂う世の中は、石丸構文と揶揄されるような切れ味鋭い物言いで既存勢力をぶった切っていくことの必要性を感じ、そういった意味では石丸氏が世の中を確実にいい方向に持っていってくれるという確信は持てないまでも、大いに期待するところがあります。

その期待という意味では、自分の中では「NHKをぶっ壊す」のNHK党の立花孝志氏と石丸氏は同じカテゴリーの中に見ていますが、この立花氏は、特に石丸氏の選挙ポスター制作費と恫喝問題二つの裁判の敗訴に関する解釈の違いで批判をしています。

当時市長だった石丸氏が安芸高田市議会議員で清志会の山根温子議員から恫喝を受けたと発言、投稿し、名誉を傷つけられたと山根議員が訴えた裁判で、2審の広島高裁は1審に続いて山根議員の訴えを認め、市に33万円の支払いを命じました。
立花氏は裁判に負けたならば謝罪すべきだとの考えですが、石丸氏は恫喝したと認めるに足る証拠がないということで、恫喝がなかったということを示すものではないので謝罪はしないというスタンスです。

自分は石丸氏ならそう考えて当然だろうと考えます。
石丸氏は良くも悪くも自分の持つ考え、正義に尋常ではないほど固執する傾向があり、それはサイコパス的でもあり、それが大きくものを動かす原動力になっているのだろうと思われます。

 

昨年から前呉市議会議員の谷本誠一氏の釧路空港エアドゥ機強制降機事件の裁判をすべて傍聴しています。
そこで感じたのは、裁判は客観的証拠がなければ認められないのは当然ですが、有効な証拠、証言を取り上げず、裁判官の恣意的判断で如何様にも判決を捻じ曲げることができる恐ろしいところだということです。
そしてその判決は強い社会的効力を持ち、過去国家権力によって数多くの真実が隠蔽されてきたのであろうと思わざる得ません。

谷本氏の裁判は1審の地裁では敗訴し、現在審議は2審の広島高裁へと移っています。
1審の若い男性判事は、自分の印象としてはまったく聞く耳を持たない権力の犬という感じで、傍聴していて不快感しか残りませんでした。

けれど控訴後に開かれた2審高裁の倉地真須美判事は真摯にそれぞれの弁論に耳を傾け書類にも目を通し、この判事なら公正な裁判の元正しい判決を下してくださるだろうと期待を持っています。

先日、山根議員恫喝問題で市に名誉毀損の賠償判決を命じたのはその倉地判事だということを知りました。
完全な個人の感想ですが、過去の市議会での山根議員の偏向答弁を聞く限り、実際に恫喝めいた言葉を発した可能性が高いのではと感じています。
残念ではありますが、恫喝を証明するに足る証拠がない現状で敗訴は致し方ありません。

さらにまたネットを調べていて、広島高裁において倉地判事は、性同一性障害の方に対して「手術なしでの性別変更」を認める判決を出したとあり、これには驚かされました。

司法の世界は一般常識の通用しない世界なのでしょうか。
そこは一般人の持つ感覚的な判断とは別次元の尺度で動いていることは間違いなさそうです。

 

話が逸れてしまいましたが、あとひとつ石丸氏について感じることを書いてみます。

多くの著名人が石丸氏を批判する中、何度か対談をし、その忖度なしの厳しい物言いに対してホリエモンこと堀江貴文氏は肯定的発言をしています。

石本氏とホリエモン、この二人に通じるのはアドラー的思考だと感じます。
ホリエモンは自著の編集者から
「嫌われる勇気に書かれているアドラーの考え方は堀江さんの考え方と同じなので是非読んで欲しい」
と強く懇願され実際に読んでみて、過去に自分と同じ考え方を体系的に説いた人がいたことに驚いたと述べていました。

このアドラー的考え方は石丸氏にもそのまま通じます。
東京一極集中回避発言、メディアへの塩対応、あえて批判を受けるような態度を躊躇なく取る様は忖度社会、同調圧力仲よし村社会の掟に反することであり、批判的意見が多く出るのは当然です。

またミラーリングといって相手に応じた対応をする、女、子どもにも容赦はしないといった、およそ今の日本では受け入れがたい考え方をストレートに表現するのは、例え子どもでも対等な関係を築き唯一無二の存在として接するというアドラーの考え方と一致します。

自分はアドラーの考え方には共感はするものの、ただ本を数冊読んだだけであり、とても深遠なるアドラー心理学に精通したとは言えませんが、石丸氏の批判を恐れぬ生き様に『嫌われる勇気』のあるべき姿を見る思いです。

 

そんなことで、石丸現象から多くのことを考えさせられ、自分のあり方を振り返るキッカケをいただきました。

他人はみんな自分と違うから面白い。
けれど他人の意見はすべて二次情報、それに溺れてはいけません。
一次情報、自分の目で物事をしっかりと見つめることが大切です。

けれどこれも食に例えて考えてみると、二次情報とは食べやすく手を加えた加工食品、お菓子や嗜好品のようなもので、ついついそちらに手が伸びてしまいます。
一次情報はそれ自体は調理前の食材のように無骨で味気ないもので、それを自分の手で調理できない人はすべて加工食、外食に頼ってしまいます。

今は超便利な世の中だからこそ、ファストフードに頼ることなく、自分自身で食の管理ををしていかなければなりません。
それができないからこそ『自分探し』などといった言葉がはやるのでしょう。

下痢をしてもいい、腹痛になってもいい、自分で食材を探し、自分の手で調理し、しっかりと咀嚼して消化できる人間になることが求められます。