ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
 ヨガナンダ > スピリチュアル夜話 > 祈り



ヨガナンダ



祈り

今朝ゲストルームにまりもさんという方からこのような書き込みをいただきました。

ヨガナンダさん☆こんばんはぁ(^o^)/
また、また教えてくださいませ〜m(__)m
身内やお友達の病気の治癒を願っているのですが、何か私に出来る事はございますでしょうか?
教えて頂いた7つの素晴らしい言葉を唱える事が、身内やお友達の健康や治癒にも通じますでしょうか?
よろしくお願いしますm(__)m☆


まりもさんは先月初めてゲストルームにメッセージを書き込みをしてくださり、
その際、私の方から ホ・オポノポノの言葉もいいですが、
スーハの「心が安心・安定する7つのことば」もいいですよとレスしたのです。

思い、祈りは人に通じるのでしょうか。
どんな祈り方がいいのでしょうか。
祈りについて感じていることを書いてみます。


以前、心とからだの健康レポートにも祈りについて書きました。
  <祈り>

祈りは人間が生み出しうる最も強力なエネルギーである。
それは地球と同じ現実的な力なのである。
医師として私は数多くの人々があらゆる他の療法で失敗した後に
祈りという厳粛な努力によって疾病や憂鬱から救われた例を目撃している。
         アレクシス・カレル(ノーベル生理医学賞受賞者)


そこにも書いている通り、
アメリカでは祈りが具体的治療効果を上げているという論文が
発表されているそうです。

二十年ほど前、関口宏が司会をするワンダーゾーンという
ミステリアスな話題を取り上げる番組があり、
その番組で「祈り」をテーマとした放送を録画し、
今もDVDとして持っています。

その中で医療の一環として祈りを取り入れている病院が紹介されていて、
重病の人や手術を行う人たちに対し、
信仰の篤い人たちのグループが祈りを捧げ、
それが確実に効果が出ているということが述べられていました。

祈りとは敬虔で美しいものです。
その祈りの場をレポートしていた女性キャスターが、
その場で涙を流しながらレポートしていたのが印象に残っています。

その場面のバックに流れていたのがアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」で、
今この曲は自分の中で、祈りや敬虔な思いの象徴のようになっています。




祈りとは、神仏など絶対的なもの、または自分自身に強く請い願うこと、
そして願うことは自分のことであったり他人のことであったり様々です。

強く願うことは叶う、
人はそう信じ、また経験的にそう感じるから祈るのです。


人間の想念は無限の力を持っています。
自らの想念がすべての外世界を創っていて、
どんなささいな思いでも、それが無駄に消えていくことはない、
そう信じています。

けれど想念と現実世界との関係は複雑で、
今日思ったことが明日すぐに現実化するというものではありません。

冬の長い間一生懸命地中に根を張っていた植物が、
春になって一気に芽吹かせるように、
時を経て期せずして現実化することもあります。

また思いとは、頭の中の表面意識で考えているものだけではありません。
潜在意識の奥深く、魂と呼べる深い部分に刻み込まれた思いもあり、
それを人は運命、天命、宿命といった言葉で表現し、
それらは頭の中で考えている思いとすべて一致するとは限りません。

西洋的な潜在能力開発や成功哲学を唱える人たちは、
この世の中はイメージがすべてだと考え、
あたかも表面意識から潜在意識に落とし込んだ思いが
すべての現実を創るかのように語りますが、
それは真実を片面からしか捉えていない姿です。

それに対して東洋的な「無為自然」という生き方は、
ただ何もしないというのではありません。
心の最も深い部分から湧き上がってくる思い、
それに伴って現れてくる現実を尊重し、
表面意識でそれらを評価したり、価値を付けたりせず、
作為を捨て、現実の流れのままに生きるということです。

やはりこの東洋的な心の深い部分に根ざした生き方、考え方が究極です。
人間の表面意識を中心に現実を動かそうとすると、
どうしてもそこには人間的な様々な感情や欲得がからんできます。
そしてその欲望の成就を絶対的な指針として築き上げてきたのが、
この壊滅的なまでに崩壊した現代社会です。


言葉で表現するのは難しいのですが、
私が祈りを捧げる時、頭の中でイメージする世界が、
少しずつ年齢を重ねるごとに変わってきました。

三十年ほど前、潜在意識の不思議な力を知ってからは、
祈る時は、真剣に望むべき現実をイメージするようになりました。
こうなって欲しいと思う姿を強く、そして何度も思い描きます。

また想念は24時間休むことなく働いています。
ただ祈っている時だけイメージしていればいいわけではありません。
普段の生活の中でも、その祈りに反するイメージを持つことはタブーです。
これについては痛い経験をしたことがあるので身にしみています。

それが東洋的な理合いを知るようになってから、
起こってくる事には原因があり、
その原因を知らずして現象だけ変えようというのは、
「臭い物には蓋」というのと同じであり、
本質的な問題解決には至らないと思うようになりました。

起こってくる事に本来善悪はありません。
すべては自らの深い意志、想念でもって引き寄せたことです。
その原因となる意志を無視し、新たなイメージでもって覆い隠しても、
その意志が本来の目的を遂げられるまで、
繰り返し目の前に現れてくるはずです。

ですから無為自然とはその深い意志、想念を尊重することであり、
それらを尊重するからこそその思いを遂げることができ、
その段階をクリアーし、新たな境地へと進んでいくことができます。

強いイメージングが悪いわけではありませんが、
それにはそれ以前の段階として、
善悪を越えて物事が起こってくる原因に目を向け、耳を傾け、
心の奥底が求めているものを感じてあげること、
そしてその意志を尊重し、それをクリアーしていくことが必要なのです。

今は何かに向かって祈る時も、
頭の中に直接その対象物を思い描くことはありません。
原点はまず自分自身の内なる心です。
その自分の心に向かい、何を訴えたくて目の前に現象を現したのか、
そのことに心傾けるのです。

たとえ知り合いの病気の快癒を祈る時でも、
その知り合いの病気を通して自分は何を学びたいのか、
どんな理由でその人、その人の病を自分に引き寄せたのか、
そこに意識の焦点を向け、自分もその人も、
互いにその病を通して最高の気づきと学びが得られることを願います。


これが本当に最高に望ましい形なのかどうかは分かりません。
ただ今の自分の心に任せて祈りを捧げると、
自然とこういう形になるのです。

これは禅の境地に近いのでしょうか。
プロゴルファーのタイガー・ウッズのこの言葉にも近いものを感じます。

普通イメージトレーニングは、「ベストなプレイ」をする自分を
イメージするだろうけど、ボクは違うんだ。
自分がボールになって飛んでいくのをイメージするんだよ・・・
つまりボクのイメージはZEN(禅)なんだよ・・・。



祈る時にはどんな言葉を唱え、
どんな様式に則ってするのがいいのでしょう。

祈りのスタイルは、様々な宗教、風習によって千差万別です。
その中のどれがいいのかは分かりません。
その時代、国、地域、気候風土、習慣、信仰、 ・・・ それらによって、
また個人によって合うものが異なるのではないかと思われます。

これは祈りに限ったことではありませんが、
効率化を求め、どんなものにも必ず正解があると教育され続けてきた私たちは、
何事にもついセンス(感覚、感性)よりもノウハウ(方法)を求めてしまいます。

けれど本当に大切なのはノウハウよりもセンスです。
どうやって祈るのが最も効率的で効果的かを人に聞くよりも、
まずは自分でどうすればいいのかを考え、
その考えを巡らせている間に得るセンスこそが何より大切です。

何とか祈りを通じさせたい、願いを叶えたい、
いや絶対に叶うんだ、 ・・・ そう強く信じ、
その過程で深く自分を見つめることが貴重であり宝です。

そこで得たセンスは言葉にすることはできません。
また人に伝えることも、人から教えてもらうこともできなのです。


毎晩お風呂の中で体に手を当て、口から言葉を出し、
心と体に感謝の思いを伝えています。
この感謝の伝達も、立派な祈りのひとつだと考えています。

その祈りを続ける中で、
祈りとは思いを発露する特別な手段ではなく、
人間が生きていく上で欠くべからざる生理的反応だと思うようになりました。

だから自分の心と体の声に耳を澄まし、
その声の命ずるまま、求めるまま、自然と祈りを捧げるのがいいのです。

無為自然、我ただ足るを知る、感謝は究極の祈りです。

2012.11.8 Thurseday  
ひとつ前へ  ホームへ メニューへ 次へ
Link Free
Copyright 2010 Sakai Nobuo All right reserved.