ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



依存心

トイレ掃除活動を自分の中から遠ざけようと決意して、
もう一二ヶ月経ったでしょうか。
最近はあまりにもいろんな事があり過ぎて、時間の感覚がよく分かりません。
また手帳をめくって過去を確認したい気持ちにもなりません。

トイレの便器を磨かせていただくのは素晴しい心磨きの手段ですが、
それがあまりにも素晴しすぎて、
ついそれに依存してしまい、
本来見つめなければならない問題の本質から外れてしまう危険性があります。

見つめるべきは心を曇らせている自分自身の抱えている問題点であり、
公衆トイレの便器ではありません。
公衆トイレの便器磨きは、
その自分を見つめる力を付ける補助手段とするのなら有益ですが、
それを見つめたくない自分を肯定し、
“逃げ” の姿勢で問題回避をしてしまっては本末転倒です。

そのことを深く感じ、トイレ掃除活動から距離を置くことを決意しました。
けれど本当に距離を置くべきは、トイレ掃除そのものではなく、
その素晴しきトイレ掃除に依存しようとする自分の中の逃げの心です。

ですから今でも月に一度の公衆トイレ掃除の会には参加していますし、
周りでパソコンを上手に扱える人がいないので、
事務局として会の案内をしています。

思いの力は大きいものです。
いったん心の中でトイレ掃除に依存する心を排除しようと決意してからは、
これまでと同じように便器を磨かせてもらっていても、
その心持ちがまったく違います。

以前は目の前の便器は自分の心そのものだという意識が強く、
便器を磨くことが即自らの心磨きだという考えでいたのですが、
今は便器を磨くのは、心磨きをする力を付けるためであり、
そのトイレ掃除で鍛えてもらった力を用い、
自らの課題に取り組んで初めて価値が生まれると感じるようになりました。

トイレ掃除が本番ではなく、
本番に挑む前のウオーミングアップみたいなものでしょうか。
だから以前とはまた違った楽しさがあるのです。


トイレ掃除に取り組む意識を変えるだけで、
こんなにも大きく思いが変わるとは、自分でも驚きです。

トイレ掃除から距離を置く決意をしたので、
月に一度でも公衆トイレを掃除するのは中途半端かなとも思ったのですが、
今心の中にそんな気持ちは微塵もありません。
それはトイレ掃除への依存する気持ちが払拭されたからで、
回数といった形は関係ないのです。


それにしてもやはりトイレ掃除は素晴しい ・・・ 。
ちょっと矛盾した論理のように感じるかもしれませんが、
これまでトイレ掃除にどっぷりと浸かり、
それに熱心に取り組んできたからこそ、
今、その依存や執着といった感覚から離れることができたのだと思います。

トイレ掃除を続けてきたことによって、
それまでとは格段に心の中が穏やになったことは間違いのない事実です。
だからこそ、次の段階へとスムーズに進むことができました。

依存が絶対的に悪いわけではありません。
小さな子どもは親や学校に依存するものです。
依存することによってしっかりと多くのことを学び、
次の自立の段階へと進んでいけます。

依存が悪いのではなく、
いつまでもその依存から脱却できないのが問題なのです。


月に一度の会でトイレ掃除は行っても、
それ以外、一人で公衆トイレに出かけて行って掃除したり、
路面のガム取りをすることは自粛していました。

それをすると際限がなくなり、
まだまだ自分には他にもっとすへきことがあるのが分かっていますので、
それはいつか先の夢ということにしているのです。

けれど気になるのが平和公園のガム取りです。
昨年は何度も平和公園に出かけ、
路面にこびり付いたガムを何百箇所も取らせていただきました。

平和公園は週のうち半分近くは中や近辺を通る身近な場所であり、
ガム取りをしたこともあり、深い愛着を感じる場所でもあるのです。

さすがに平和公園は、普通の商店街のようには汚れていませんが、
それでも視線を下にして歩いていると、
ところどころに真っ黒なガムを吐き捨てた箇所が見受けられます。

昨年全域に渡ってきれいにしたのですが、
それ以降吐き捨てられたガム跡が散見されます。

これをどうすべきか、かなり真剣に悩みましたが、
やはり自分の胸の奥から湧き上がってくる思いを大切にすることにしました。
8月6日、再来月に迎える67回目の原爆記念日に、
国内外から来られた人に少しでもいい思いをしてもらいたい、
これが自分の正直な思いです。


いつも仲良くしてもらっている
ソルト・ホームスクール清水十輝くん18歳を引っ張って、
一週間前の12日、二人で平和公園のガム取りをしました。

清水十輝くん平和記念公園でガム取り

その日は雨が降ったり止んだりの悪天候でしたが、
たくさんあるガム跡の除去に二人して汗を流しました。

平和公園には、
リヤカーを引きながら公園をきれいにする掃除人の人たちがいつもおられ、
その人たちにも、
「ご苦労様、何しているの〜?」
と声をかけていただきました。

私がガム取りをしていると説明すると、
以前はシルバー(ご老人)の方で、ガム取りを担当する人がおられたのだそうです。
けれど今はおられないようですね、
見る限り、我々以外でガム取りをした痕跡は見受けられません。

そう考えると、20世紀最大の事件発祥の地である平和公園を、
こうしてきれいにする役割を担わせていただくのは、
本当に限りなく光栄なことです。


12日に十輝くんとガム取りをし、
一昨日17日にも一人で平和公園のガム取りをしました。

ガム取りをしていると、心の奥から幸せな気持ちがわき上がってきます。
ガム取りに熱中している瞬間は、
何の悩みもなく、ただ感謝と平安な気持ちがあるだけです。

実際にガム取りは、ずっとしゃがんだ姿勢で行うので、
足腰が弱ければすぐにバテてしまいます。
ガム取りができるということそのものが、ひとつの幸せな姿なのです。


湧き上がってくる幸せな感覚、
けれどその甘美な喜びの影には、
それでもって人を酔わせてしまう危険性があることも感じます。
これが依存への誘いです。

二十歳過ぎで神の道を志し、神因縁を持つようになって、
様々な宗教、超能力、気功、風水、・・・
ありとあらゆるスピリチュアルな世界と深い関わりを持ってきて、
この甘美な感覚を、何度も味わった経験があります。

そしてそれらの活動の中心にいる人たちが、それに酔いしれ、
完全に価値の主体を自分の外であるそれら手法の中に
埋没させてしまっているのも数え切れないほど見てきました。


よく熱心な信仰を持つ人たちが、
自分の信じる宗教こそが深い教えを説いていて、
他の宗教と比べてより上位のものだということをお話しになります。
けれど本当に宗教に価値の序列などつけられるのでしょうか。

他のスピリチュアルの世界でも、
自分たちの関わっているものこそが、
本当の意味で人を救うことができると説いています。

それが正しいのかどうなのか、
その答は自分の中にあり、
自分がそれとどのように関わるか、
それを自分がどう活かすか、そこにすべてがかかっていると言えます。


外にあるものは、すべてが自分を活かすための手段です。
そこで勢いをつけ、いかに遠くまで飛んでいけるかが問題です。

ガム取りをして湧き上がる喜びの感情に包まれながら、
これを活かすことこそが自らの使命であり、
そして親や先祖への孝行、
原爆で亡くなった広島の人たちへの供養になるのだと直感しました。

2012.6.19 Tuesday  
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