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平和を伝える

この時空は太極のバランスで成り立っていて、
ひとつの極を目指すことは、
その対極の存在をも際立たせることにつながります。

光あるところに闇がある、
闇というものは、その対極の光があるからこそ認識することができます。


被爆地広島に暮らしていると、
平和や原爆ということが日常のテーマになっていて、
まるで水や空気のような当たり前の存在として、
目の前にあってもそれを強く意識することがなくなっています。

平和記念公園は、私にとっては街中を走る時の通り道であり、
また駐輪場としてもたびたび利用しているので、
週に何度も原爆ドームを目にしていても、
そこから特別な感慨はまったく湧いてきません。

時折広島を訪ねてくる友人とともに原爆ドームを見に行くと、
彼らの受ける衝撃の大きさに、
あらためてその意味を感じ取らせてもらいます。


広島という街、広島に暮らす人たちは、
世界に向けて核兵器廃絶と平和を訴えていく責務があると思います。

そのために平和記念公園があり、
原爆ドームも補修を重ねながらその姿を維持しているのですが、
本当の理想を言うならば、
戦争の傷跡を伝える「もの」は、すべてなくしてしまうのが望ましいことです。

河内正臣先生が説かれるように、
人類が犯した最大の罪のひとつである原爆投下を、
その被害者である広島に暮らす人、被爆者が “許す” こと、
これが広島に与えられた天命だと感じます。

目には目をという考え方や、
自分が被害者であるという意識をいつまでも持ち続けたままでは、
争いは永遠に終わることはありません。

だから形として、
被害者としての思いを呼び起こすものを
今すぐ捨てるべきだと言っているわけではありません。
いつかそういう意識になることが望ましいということです。


広島には原爆ドーム以外にも被爆の傷跡を残すものが数多くあります。
それらは戦争の悲惨さを後世に語り継ぐ貴重な資料ではありますが、
それらは平和を訴えると同時に、
戦争というもののイメージを人々の脳裏に深く刻み込む働きもしています。

『戦争をなくそう』と訴えるのは、戦争をイメージするからマイナス発想、
戦争ではなく、『平和を築き上げよう』と平和を唱えるのがポジティブであり、
そうすべきだと語る方がおられます。

それはそれで正論だとは思うのですが、
究極的な東洋思想で捉えると、
たとえ平和をポジティブに唱えたとしても、
やはり平和と対極概念の戦争のことが浮かび上がってきてしまいます。


広島で、被爆したあるものを使って平和を訴える活動をしている方がおられます。
その方、Aさんは、その被爆したものを全国、海外にまで運び、
それを使った催しをし、それでもって平和のメッセージを伝えるということを
自らの天命と考え、精力的に活動しておられます。

Aさんは傷付き、被爆したそのものを自らの手で修復し、
それを使って催しをするからこそ平和が訴えられるのだと信じ、
いろんな場所でその意義を唱えておられます。

被爆したものにこだわり、
精力的に各所で自らの活動についてアピールするAさん、
私はその姿を見て、
そこにまったく愛や平和というイメージを感じません。

私がそこからイメージするのは、
恨み、被害者意識、排他主義、執着、争いといったことだけです。

元々、私たちが戦争を起し、原爆という恐ろしい兵器を開発するに至ったのは、
我々の持つ物欲を中心とした利己的欲求が原因です。

その「もの」へのこだわりから引き起こされた戦争を、
「もの」にこだわった方法を用いて反対していこうとすること自体が、
そもそも矛盾しています。

本当に戦争をなくしたいと願うのであれば、
廃絶しなければならないのは、
原爆や戦車やミサイルといった兵器ではなく、
それを生み出す元となったものへの執着心や、
自分たちさえよければいいといった利己的な考え方であるはずです。

そう考えたならば、
ものを使った平和運動は、両刃の剣であるということが理解できるはずです。


Aさんがこだわっているものと同じジャンルで平和を訴えているある方が、
Aさんとお酒の席で一緒になり、
「私の持っている被爆○○○でなければ、平和のメッセージを伝えることができない」
と言われ、自らの活動を否定されたように感じ、
とても悲しい思いをしたと語っておられました。

ここまで行くと愚の骨頂です。
「平和なもの」にこだわるあまり排他的になり、
そのものによって人の心を傷付け、争いの元を作りだしています。


究極的に目指すべき平和とは、
ものへの執着を手放し、こだわりの心を捨て、
戦争、平和といった対極の概念から離れ、
ただ太極の中に身も心も置くことです。

これは遠いゴールかもしれませんが、
この時空の成り立ちからいって、必然的に求められる帰結です。


極は極を生み出します。
これからのスピリチュアルな時代を象徴するような
権威から脱却した活動をしている人たちが、
逆に権威ある人から認められることを異常に喜ぶという姿を
何度も目にしてきました。

表大なれば裏大なり、
悪は悪を生まない、善が悪を生むのである。

太極の思想を体現することが、
平和をも越えた、真の求める世界です。

2012.3.13 Tuesday  
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