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メッセージ

今月のはじめ、京都、奈良、鎌倉、東京と旅をして、
因縁のある場所を巡り、娘とともに両親の墓参りをし、
自分の中で何かが大きく変化しました。

すべての物事にはタイミングというものがあり、
自分の内なる世界に耳を澄ませているならば、
最も自然なタイミングが自ずと与えられるものと信じています。


6月4日(土)、東京の板橋にあるMさんという三十代の女性のお宅に、
日本山妙法寺の石橋行受上人とともにお伺いしました。
  <6月4日の旅日記>

昨年はじめ、私のホームページを読んだMさんからメールをいだきました。
その後メールや電話で交流を続けてきたのですが、
直接お会いするのは今回が初めてです。

信仰心の篤いMさんですので、
ご近所におられる素晴らしい宗教家であり平和の実践者である石橋上人と
いいご縁を持っていただきたいと願い、
二人で一緒に訪ねました。

日記の中にも書いたように、
元々霊感が強く、そういったトレーニングも積んできた彼女は、
突然シャーマンとしての素質を発揮するようになり、
私宛にいろんなメッセージを送ってくださるようになりました。

その最初に送ってもらったメッセージは、
日記の中にも書いた通りなのですが、
その後もほぼ毎日のように、
私の霊的状態とその変化、チャクラやDNA等の心身の状態、
亡くなった母のあちらの世界での様子、
彼女や彼女の周り、私や私の周りとの過去世からの因縁、
アセンションのことなど、
かなり興味深い内容を、仔細かつ具体的数値とともに伝えてくれています。

その一部でもここで紹介したいと思ったのですが、
一般に公開することはN.Gとのことです。
けどきっとそう遠くない日に、そういったことが公に語られるようになると思います。


Mさんは、その後も石橋上人と連絡を取って会いに行き、
かなり長時間いろんな話をされたようです。

そして最近は、私と石橋上人の二人に同送メールという形で、
二人の霊的状態を解説したものも何通か送ってくださるようになりました。


私にとっては、
それをどのように受け止めるべきなのかということは大きな課題です。

今はものすごい時代です。
これからは、今まで考えられなかったようなことが、
突然目の前に現われてくるような時代になるでしょう。

けれどもどんな状況になろうとも、
常に自分というものをしっかりと持たなければなりません。

私はMさんに、石橋上人との同送メールという形で返事を書きました。
そこに書いたことは、
これまでこのホームページで書いてきたことの復習のようなものであり、
自分への再確認の意味合いもあります。

読み返してみると言葉足らずのところもあるのですが、
ここにそのメールの内容を、
Mさんのお名前を実名からイニシャルに変更した以外はそのまま状態で
転記いたします。

考え方、とらえ方のひとつの例として、参考にしていただければ幸いです。

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南無妙法蓮華経


こんにちは。
まだ梅雨明け前ですが、今年は猛暑の予感です。

石橋上人との同送メール、楽しく読ませていただいています。
ですから私も、返信はMさんと石橋上人への同送メールでお返しいたします。

Mさんは石橋上人と長い時間お二人でお話しされたとのことですが、
どんなお話しをされたのでしょう。
Mさんが石橋上人とご縁を深めてくださるのは、
私にとっては大きな喜びです。

またこういったメッセージを送られるということは、
石橋上人もMさんの持つ世界を受け入れられたのでしょうか。

個人的な思いとしては、
それはちょっと痛快であり、微笑ましく感じます。


一般的に宗教家とは、
真面目ではありますが頑なであり排他的であるものです。

それはいつも私のホームページに書いているように、
これまでの宗教は、これまでの時代の金属の理を受け、
教えでも組織でもきちっとした硬いものを構築し、
それを崩さないよう懸命に守ることによって、
人の心をひとつの方向に導こうとしてきたためです。

これに善悪の価値はありません。
ただこれまではそういう時代であり、
そういう形を取ることが自然で、
また人の心を救う力を持っていたということです。

けれどもこれからは水の時代であり、
広くあまねく、また周りのものと溶け合い、融和することによって、
形のない形でもって広く人々の心に浸透していくのが時代の理です。

Mさんのメッセージはまさに水の時代を象徴するスピリチュアリズム的なものであり、
人の心を救い、
宗教という字の、うかんむりに示す、宇宙の示した教えという本来の意味において、
新しい時代の宗教であるとも言えるでしょう。

文明法則史学で明らかになっているように、
これから大転換期の先に向かえる新しい時代は、
陰の時代、東洋の時代です。

善悪二元論で価値を切り分けるのではなく、
すべてのものに価値を見出し、
その価値の源が自分の内にあるということに気づく時代です。

だからこそその気づくためのキッカケとして
『経験は宝』であり、
立派な宗教家であり、実践する平和運動家である石橋上人が、
新しい時代の理であるMさんのメッセージに目を向けてくださるということは、
とても素敵なことであると感じるのです。


Mさんのメッセージを普通の人が受け取ったなら、
まず初めにそれが本当に正しいメッセージなのかどうなのかということを考えるでしょう。

正しいのであれば、それをどう活かしていったらいいのか、
また正しくないのであれば、そこから意識を背けように、とするでしょう。

けれども私は違います。
そもそもMさんのメッセージに正しい正しくないという判断を
客観的にすることができるのでしょうか。

物理学上の真理「不確定性原理」が示すように、
『すべての計測は、計測結果に必ず影響を与える』
という法則は、
Mさんのメッセージのように究極で異次元のものにはより強く当てはまるであろうと考えます。

この世の中のものはすべて正しいか正しくないか、
ふたつの絶対的評価に色分けすることができるというのは、
我々人間の持っている幻想に過ぎません。

真理は人から与えられる絶対的なものではなく、
自分でつかみ、感じ取る相対的なものです。

メッセージの真偽は客観的に存在するものではなく、
主観的に自ら判断するものかもしれません。


また仮にMさんのメッセージが、
真偽の判定をすることができるようなものであったとしても、
その判定結果を私が正確に知ることは不可能です。

不可能なことに意識を向け、
それを自分の価値判断の根本に据えるのは危険で無意味なことです。


私にとって大切なのは主体である自分自身です。
その自分がすべての創造主であり神であり仏であると信じています。

これは私の持つひとつの「信仰」なのかもしれませんが、
そう考え、その視点でもって身の回りを見ることが、
最も高い整合性を持ってその秩序を理解することができる、
ただそれだけのことです。

その創造主である自分自身が、
身の回りのものをすべて創造したのですから、
Mさんも、またMさんのメッセージも、
私が創造し、引き寄せたものであると考えられます。

そこには何らかの意図があり、
そこから何かを学びたい、感じたいと願ったからこそ、
自分という創造主が、自分の目の前にMさんのメッセージを現したのです。

私にとって最も大切なのはこのことです。
この機会に自分は何を感じ取りたいと願っているのか、
その心の奥底、真我とでも呼ぶべきものなのでしょうか、
その真我の思いを察し、
その思いの通りに行動し、生きていきたい、
これより大切なものはないのです。


もしMさんのメッセージが宇宙の創造主である最高の存在から送られた
英知に満ちたものであったとしても、
それを私が驕り高ぶった気持ちで受け取り、
自分をマイナスの方に導いてしまったとしては、
何の意味もないものです。

逆にMさんのメッセージが狐狸の類の低級霊からのものであったとしても、
そこから伝えられたことを自分の糧とし、
成長の一助とするならば、それはとても価値のある素晴らしいものです。

価値の主体は自分の中にあり、
自分自身が創り出すものです。

自分を愛し、自分というものを正しい目で見つめ、
それをしっかりと持つことが、
判断を誤らない唯一のものだと信じています。


それともうひとつ、
私が人と接する時に信条としていることがあります。

三国時代の英雄である諸葛亮孔明の言葉を
20年ほど前に本で読んだのですが、そこには、
「人と会う時には、まずその人の志を見ろ」
というようなことが書かれていました。

大切なのはその人が語ることの重要性や真偽ではなく、
それを語るその人の思いである、
私もまったくその通りであると感じます。

Mさんがどのような思いで外からメッセージを受け取り、
また私たちにそれを伝えようとしているのか、
それが悪意ではなく善意から発せられたものであるならば、
それに対しては真摯に対応することが、
人として求められる所作だと思います。

混沌とした現代において、
玉石混淆さまざまなものが巷にあふれ、
その中で『本物』というのをひとつのキーワードとしてよく見かけますが、
私はこの本物という言葉があまり好きではありません。

本物の商品、本物の発明、発見、
本物という言葉の響きには、
形として為した後の結果のみに重きを置くニュアンスが感じられます。

これからの時代を変えていくような『本物』が生まれる背景には、
それを導くに至った、真理を求める強い人の思いや善意があるはずです。

貴重なのはその思いや善意であり、
それが結果としての『本物』を生み出す源です。

Mさんが真面目に真理を追い求めようとし、
善意で私たちにメッセージを伝えてくださるのであれば、
私はそれをありがたく受け取りたいと思います。


けれども大切なのはその思いであり形ではありません。
私も父の胃がんをキッカケとして宗教家、神の道を志してもう三十年、
その間数え切れないほどの立派な方たちと出会い、
また不思議な体験を重ねてきました。

若い頃は奇跡を目の当たりにするたびに心動き、
自分の価値観が移り、
それに失望した時にはまるで突然心の支えを失ったかのように
激しく落胆したりもしました。

けれどそういった経験を重ねるにつれ、
特に95年、母が自らの命を懸け
私に永遠の輝く魂の実在を伝えてくれてからは、
大切な価値観を自分の外に委譲することはなくなりました。

この時空に於ける最高のものは己の内に存在する、
この母が伝えてくれた真実は、
私にとって何ものにも代え難い宝物です。

今も自分の外にある神社仏閣やパワースポットと呼ばれるところに
足を運ぶことはありますが、
その目的はお礼であり、ご挨拶、ご報告であり、または憩いです。

御利益を求めてそういったところに行くことは、
これからの人生、決してありません。

もし自分の気持ちがそうなったとしたら、
それは自分や母に対する裏切りであり、
私にとっては絶対に犯してはならないタブーなのです。


Mさんのメッセージは、
目の玉が飛び出るほどの驚くべき内容ではありますが、
私にとっては、自分を高めるための参考であり、
それ以上でもそれ以下のものでもありません。

そのように自分をしっかりと持った上でMさんや
Mさんからのメッセージと接することが、
自分のためであり、
またMさんのためでもあると信じています。


さらに思うのは、
真理に至る道はひとつではないということです。

私もMさんと同様に、
この時空の真理、生命とは何かを求める強い思いを持っています。

真理という頂に至るには、
山登りと同様、様々なルートがあるのだと思います。

私は人一倍の劣等生として子ども時代を過し、
今も当時から身に付いている怠惰な性質を引きずっています。

自ら作りだした苦労として土木の日雇い生活も何年か経験し、
Mさんほどではないにしても
人生の辛酸は少なからずなめてきました。

その間も真理を求める思いは強く持ち続け、
たくさんの宗教や不思議な世界を経て、
現在行き着いているのは、
公衆トイレの便器を磨くこと、そしてインドの孤児たちと関わることです。

私の真我の欲求は、
たぶん貧しく、学がなく、特殊な能力もまったくない人間でも、
深い真理に目覚めることができるという道を、
追い求めることにあるのだと思います。

また私は自らの経験から、
そういった道が必ずあると信じることができ、
そう信じることができるということが、
私にとっての大きな幸福の源です。


Mさんのようなにメッセージを受け取る能力は、
すごいことだと思いますし、
ほんの少しうらやましくもありますが、
私は心の奥で、自分がそういった能力を得ることを拒否している面があるのを感じます。


それはそういった能力を忌み嫌うという意味ではなく、
私には、私の天命を全うするため、
そういった能力はない方がいいのだろうと考えるからです。

この世の中で最も貧しき者、最も学がない者、最も凡庸な者、
そういった人たちとともに歩み、
その中から、多くの人たちとともに最高の輝く真理をつかみたい、
これが私の持つ志であり願望です。


人間が日々生の営みを続けている、
これに勝る不思議で偉大なことはありません。

それと比べたら、
人が超常現象、超能力と呼ぶものなど、
取るに足らない存在だと感じます。

私たちは時が来れば、
きっとそういったものに目覚めるようになるでしょう。
それはもうそんな遠い日のことだとは思いません。
ただ今は、まだそれに至っておらず、
またそれに目覚めない方が多くのことに気がつけるので、
意図的に封印しているのだと思います。


Mさんが伝えてくれたたくさんのメッセージから、
私の感じている、とてつもない価値観の大転換期が間近であるという考えに、
より深い確信を持つことができました。

またその不思議なメッセージを含め、
外なる世界の形が大きく変革してきている今だからこそ、
その対極にある自分の内というものをより大切にしなければならないと感じます。

私はこれからも公衆トイレの便器を磨き続けます。
またインドの貧しい孤児たちの、
あの輝くような笑顔を胸の中で大切にしていきたいと思います。


Mさんもこれまで行ってきたインドやバングラデシュの支援、
また食の節制や座禅など、
自らを律し、高める実践を続けていただきたいと思います。

外なる世界と内なる世界は陰と陽の関係です。
Mさんに外なる世界からのコンタクトを大切にしていただくためにも、
自分を深く愛し、自分の内なる世界をより一層充実させていってください。

これが私からMさんに送ることのできる唯一のメッセージです。


新しい時代の扉が開くのはもうまもなくですね。
いや、もしかしたらもう開いているのかな。

これからも、ともに歩みましょう♪

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私はこの「ともに歩みましょう♪」という言葉が大好きなんですよね。 ^^☆

外なる世界は、自分の内なる世界と同一、鏡の存在です。
だからすべてはひとつ、ワンネスです。

この時空のすべてのもの、こと(事)は共生しています。
単独で存在しているものは何一つありません。

ですから、「ともに♪」です。


一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。
インドの人たちもそうしているみたいですよ。 (^o^)v



2011.6.27 Monday  
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