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受け取り方

自然にあるものこそが素晴らしい、我々はそこから学ぶだけである。

このホームページのトップに掲げているガウディのこの言葉は、
私の考え方の基本であり、
最も大切にしている信念です。

自然こそが素晴らしい、
すべての真理、その真理を導くためのヒントは自然の中にすべてある。

富める者も貧しき者も、学のある者もそうでない者も、
性別、年齢、国籍、暮らしている環境、そういったものに一切関係なく、
自然と接しているすべての人たちに、
真理と触れる権利はあまねく与えられています。

この分け隔てのない愛、
だからこそ、この時空(宇宙)は愛で満たされていて、
この時空は愛そののものであり、
真理とは愛であり、愛とは真理なのです。


身の回りの自然、物理法則、
それらから導かれる真理は限りなく深いものです。

現代物理学の基本概念のひとつである「不確定性原理」で、
自分の外にあるものを観測する時、
ある一定量のあいまいさ(位置×運動量の誤差)はなくすことができず、
100%正確にそれを測定することは不可能である、
ということが証明されました。

何かを観測しようとする時、それを位置も運動量も、
ともに100%厳密に計ることは不可能であり、
ある程度あいまいな範囲内でしか見ることができないということです。

これの意味することはきわめて大切です。

私たちは自分たちの外側に絶対的なもの、
普遍的なものがあると信じたがるものですが、
厳密にはそういったものは存在しません。

絶対的、普遍的なものは自分の内にしか存在せず、
外側にあるものはすべて自分にとってある程度のあいまいさを持つものであり、
極論するならば、霞(かすみ)がかかった、
自己の幻想をスクリーンに投影したようなものでしかないのです。


私は『人間一人一人は神そのものであり、絶対的な創造主である』と感じ、
信じています。
これは思想や宗教というものではなく、
ただ身の回りの自然のあり方から考えて、
そう考えるのが最も自然であり、すべての論理の整合性が取れると感じる、
物理現象となんら変わりのない法則だと考えています。

そう感じる理由は一言では語れませんが、
このホームページに書いていることをくまなくお読みいただければ
ご理解いただけるでしょう。

ですからそこをさらに厳密に考えたならば、
絶対と考える自然法則ですら、
絶対的創造主である自分自身が創り出した幻想であると語れないこともありません。

けれどもそこまで厳密に言葉を定義すると、、
肉体、時間、空間、すべての面で制約のある人間としての私たちは、
100%厳密に真理を言葉で語ることができません。

自然法則は偉大で絶対です。
これは間違いのないことです。

けれどもそれよりもさらに絶対的なものは、
不立文字、言葉や論理では真理は伝えられないということ。

そしてもうひとつとても大切なことは、
本当は自然の中に真理があるのではなく、
自然を見て、感じる中に真理があるということです。

これは禅問答のようなことですね。
なかなか理解することはできないでしょうが、
まずは頭の中にだけでも入れておいてください。


前置きが長くなりましたが、
自分の外に真理があるのではなく、
真理は自分の内にしか存在しないということ。

外のことに対し、それが意味する「答え」を追い求めるよりも、
それを自分がどのように捉えるのか、
その受け取り方、そこから感じ方を深めていく過程という「途中式」にこそ、
より深い価値があるのです。

これは繰り返しここで書いてきていることです。


昨日友人何人かとのんびりとした時を過しました。
その中である男性が、自宅の立派な床柱に亀裂が入っているのをたまたま見つけ、
とても不吉な感じがするのだという話をしていました。

私はそういった話にはまったく興味がなく、
連日の寝不足がたまっていたこともあり、
その話題には入らず、少し離れたところで音楽を聴きながらウトウトとしていました。

大金持ちのその方のお家は鉄筋コンクリートの三階建てで、
和室の床柱は、床柱といっても駆体としての役割を果たしているのではなく、
ただの内装材を支える柱の一本に過ぎません。
ただ太い紫檀のその柱は、一本何百万円もの価値があるとのことです。

日本人の感覚では、床柱に亀裂が入るというのは不吉なことであり、
何か霊的な意味合いがあると感じるものなのでしょう、
一緒にいた友人たちは、お祓いや霊能者の紹介等、
親身になってアドバイスをしていました。

後でその方のご自宅にお伺いし、
その床柱の亀裂を見せていただいたのですが、
たしかに細い亀裂が、柱の一番下から上に向かって、
長さ20センチ以上に渡って入っています。

その方は価値ある美術品を何点も所有していて、
その部屋にも妖刀「正宗」を含む何本かの刀剣が飾られていて、
その配置を変えたり、盛り塩をしたりして、
なんとか「対策」をしようと試みられているようでした。

床柱の亀裂のことは、これまで家族を含む誰にも口外したことはなく、
昨日私たちに初めてそのことを打ち明けられ、
何ヶ月もの間、深刻に一人で悩んでおられたようです。

昨日は早速神社に電話をし、お祓いをしてもらいたい旨話されたり、
場合によっては床柱を外し、
部屋全体を和室から洋間に改造しようなどと話されていました。


こういったことは不吉なことであり、何らかの知らせであり、
これに対して「対策」を講じなくてはならないというのは、
日本人としてはごく一般的な感じ方だと思います。

それが正しいことなのかそうでないのかは私には分かりません。
またきっと善悪などはないのだと思います。

けれどももし私がその人の立場であったなら、
絶対にそのような感じ方はしないでしょう。

柱というのは木ですから、亀裂が入るというのはよくあることです。
それに意味を付けるのはその人の意識であり、
その人、あるいは民族の持つ信念という強い想念体です。

例えばお墓をきちんと建て、正しい方法でお参りをしないと祟りがある
というようなことがよく言われます。
たぶんそれが正しいことだと実証するような事例もあるのだと思います。

ならばその様式を守らなければ、
必ず誰にでも何らかの悪い結果を生じるかというと、
そんなことはまったくありません。

インドの人たちはお墓というものをあまり重要視しません。
あの英雄であるガンディーさんですらまともなお墓がなく、
知り合いの石谷政雄上人が初めて立派なお墓を建立したぐらいです。

未開の土地の原住民の中には、
遺骨を野にさらしたり、槍の先につけてウッホウッホと踊る民族があると
聞いたことがあります。
彼らは不敬な民族であり、民族全体として呪われた運命にあるのかといえば、
けっしてそんなことはないはずです。
彼ら民族の信念からすれば、それもまた道理に適った敬虔な様式なのです。


何か事が起こると、自分、あるいは自分たち民族が持つ信念と照らし合わせ、
それに何らかの意味を感じ取ろうとするものです。
それはすべての人、民族、宗教に共通です。
イスラム教徒はイスラム教、キリスト教徒はキリスト教の価値観に基づく信念があり、
私たち日本人には日本民族が長い間培ってきた信念があって、
その信念がひとつの世界を形成し、強力な力を持っています。

その信念に則って、神主さんにお祓いをしていただいたり、
霊能者のアドバイスを受け入れたり、
また何百万円をかけて部屋を改装することも、
また意味があることなのだと思われます。

人間個人の持つ想念の力が強力であるように、
民族が長年培ってきた信念もまたきわめて強力であり、
それを真実だと信じている人たちにとって、
その民族的信念に則った事象が祟りやご利益という反応として
起こってくることもあるのでしょう。


けれどそれは絶対的な真理ではなく、
ただひとつの個人的、民族的、伝統的な受け取り方に過ぎないということ、
そのことを深く認識していただきたいと願います。

自分の外に絶対的なものは存在しません。
すべては相対的な、ひとつの価値観に過ぎないのです。

その外側のものにあまりにも価値の比重を置き、
本来自分の中にあるべき主体をその中に持っていってしまうと、
カルト的信仰になったり、迷いを生む原因になります。


私の持つ信念は、日本人の持つ一般的なものとは異なります。
床柱の亀裂も不吉だと捉えるから不吉なことを引き寄せるのであり、
ただの自然現象、あるいは自己の成長に合わせ、
その柱も成長しようとしている証なのだというふうに考えれば、
何も恐れることなどありません。

運命とは自分の日常の行動でのみ形作られるものであり、
祈祷をしてもらったり、何か特別なおまじない的なことをすることによって
好転していくものだとは考えません。

部屋の改装にかける何百万円もの費用があるのであれば、
被災地に届け、困っている人たちの役に立てた方が、
生きたお金の使い方だと考えます。

インドには何千万人ものストリートチルドレンがいます。
それだけのお金があれば、どれだけたくさんの子どもたちの衣食住、
学校に行く費用に充てられるでしょうか、
私だったら絶対にそちらの方にお金を使うでしょう。

それでもって床柱に亀裂が入ったままの状態にすることで、
自分の運命が暗転していくのであれば、
私はその運命を甘受します。

私は、時空の法則はそんなふうにはできていないと信じます。
他人と愛を分かち合うことは、
己の利を追求することよりもはるかに尊いはずです。

もしその亀裂が何か大きな意味を含むサインであるとするならば、
まずは自分自身の生き方を見つめ、新たな方法で己を磨くことを考えるべきです。
家全体に何か障りのあるような気が漂っているのなら、
まずは「スペースクリアリング」をし、
ガラクタを手放し、家の中にあるものすべてのものを活かす方法を考え、
ものに対して感謝の思いを注ぎ込む行動をとるべきです。

それが最も本質的なことであり、
それと比べたら、祈祷をしてもらったり、
多大な金額を費やして部屋の改装をするということは、
問題の本質を回避した一時的対処方法に過ぎないと考えます。


私のこういった考え方は、民族的信念に基づく考え方よりも、
すべてのものにあまねく存在する生命の本質により近いものです。

だから私の考え方の方が素晴らしいものであり、正しいものであり、
またこう考える方が望ましいものだとは言いません。
どう捉えるかはその人個人の意志であり、信念であり、
それに善悪や正解などはないのです。


けれどもひとつここで言いたいことがあります。

平成元年からこの二十年ちょっとの間、
文明法則史学と出合い、命の本質、これからの時代の流れをずっと考えてきて、
これからはじまる心の時代は、
時空すべてのものには命があるということ、
そのすべての命の根底には共通したものがあり、
その共通したものがより大切となってくる、
そんな時代になるということが分かってきました。

根底の共通したものが大切な時代になるのですから、
人と人、人種、宗教の違い、動物と植物、
この地球に暮らすものと地球や自然環境、
そういったものの間にある垣根がどんどんと低くなってくるはずです。

すべてはひとつ、ワンネスです。
民族的な伝統は貴重な財産です。
それは大切にしなければなりません。
けれどもそこから派生してくる民族的なエゴや囚われは手放し、
もっとより生命体の根源にあるもの、
己の本質にあるものに目を向けることが求められるようになってきます。

それはけっして小手先のテクニックではなく、
己と真剣に対峙しなければ得られないものです。
けれどもそれを本当に求めようとするならば、
人種、年齢、宗教、そういった諸々の属性とはまったく関係なく、
誰にでも必ず手にすることができるものです。


これは私が二十余年間求め続けてきて理解できたひとつの法則であり、
このことはきわめて簡単なことではありますが、
簡単すぎてなかなか人には理解できないことかもしれません。

けれどもこのことが理解できなければ、
新しい時代への扉を開くことはできません。


人間の意識には層のようになった段階があります。
常に意識することのできる表面意識から、
その下の個人的な潜在意識、私たちの持つ日本人としての民族的自意識、
人類共通の意識、そして時空の大元であるすべてのものが共通した意識と、
意識とは幾重にも折り重なって深まっていくものと考えられます。

これからはすべてのものに共通した生命の本質に着目していく時代です。
個人の持つエゴというものを捨て、
民族の持つ囚われを解放し、
己の、そして命の持つ本質に根ざした意識というものが求められています。


霊界というものは、私たち人間の民族的、宗教的意識が創り出した
ひとつの幻想世界なのかもしれません。

臨死体験をした多くの人が語る霊の世界は、
共通した多くの部分とともに、
民族や宗教によって、その世界の様相は大きく異なり、
臨死体験をした人の持つ民族的、宗教的意識によって、
体験する霊の世界は違っているようです。

最近スピリチュアル系のサイトを見ていて、
霊界の規模が、近年急速に縮小してきているという文章を、
何ヶ所かで目にしました。

私には霊感などまったくないのですが、
それはたぶん正しいことなのだろうと直感しました。
人間の民族や宗教という集団意識が創り出した世界が小さくなるというのは、
今の時代の流れからいって、きわめて妥当なことです。

私たちに今求められているものは、
怨念や祟り、ご利益や迷信、祈祷や霊能力、民族的信念といったことではなく、
ただ生命の本質を知り、それに基づく行動をするということです。


ですからこれから先、具体的にどうすべきかということは言いません。
そこには共通した正解はなく、
自分自身で自分なりの解を見つけようと行動する、
その過程そのものに価値があるのです。

今という巨大な文明、価値観の転換期において、
数年という短い期間を見ただけでも、その流れはきわめて鮮明であり、
その流れそのものが生命の本質を表すひとつの属性です。

命ほど尊いものはありません。
その最も尊い命を自分の内に見つけ、
その上で、自分の身の回りのものと関わりを持ってください。

その関わり方、受け取り方、
それが価値の本質です。

2011.5.15 Sunday  
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