ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



可能性

ご飯を食べ、水を飲み、空気を吸い、
どうやってそれらが体の中でエネルギーとなるのでしょうか。

体の中に取り入れたエネルギーは、
破壊と創造をくり返しながらも動的平衡状態を保ち、
秩序から無秩序へと変移していくエントロピーの法則に抗いながらも
生命を維持し、その生命を連綿と子孫へと受け継いでいます。

この偉大なる生命システムを大海に例えるならば、
私たち人類が手に入れた最先端の科学技術など、
一滴の水にも及ばないものです。

この完璧な生命システムを有する私たちはやはり神そのものであり、
その神である私たちが、ささいなことで悩み苦しんでいるのは、
それを自らが望んで手にしているのだとしか考えることができません。


真実とは、どの段階で見るのかによって異なります。
まだ精神的に幼い段階では、
厳しいルールの元、ひとつの方向に目を向けるよう強制されるのは
致し方のないことです。

まだ精神的に発達途上であったこれまでの私たち人類は、
“立派な人間” になることを求められ、
たくさんのことを学び、感じ取ることが善であるとされてきました。
それがこの段階での真実です。

長い歴史を経て精神的に発達した大人になろうとしている今、
これからの時代は、自らの意志で道を探り、
自由意志の元、大いなる自由を謳歌すればいいのです。

そこには強制されたものは何もなく、
ただたくさんのことを経験し、それを楽しむだけです。

人生における悩みや苦しみも、
それを経験をすること、それを楽しみたいとの思いから、
自らが引き寄せている、こういう認識がこれから広がってくるものと思われます。


何かの目標に向かうのではなく、
ただたくさんの経験を積みたいということが望みであるならば、
“がんばる” ということは必要ありません。

けれどもたくさんの幅広い経験を望むということは、
自らの可能性をフルに発揮することを望むことでもあり、
それが豊かさというものです。

豊かさとは、あるひとつの到達したポイントではなく、
ダイナミックレンジの広さという状態を指しています。
商店でも、いろんな種類の品物が置いてある店を「品揃えが豊富」
と言うではないですか。

日本の昔の言葉ではハレとケ、
ハレとは晴れであり非日常、ケとは褻であり日常です。
このハレとケのメリハリがしっかりとついていることが豊かさであり、
年中冷暖房完備でご馳走を食べ、
24時間快適性、利便性を求めるのが豊かさではないのです。
  <ハレとケ - Wikipedia>


幅広い経験を積み、可能性を発揮し、豊かさを体現するには、
時には命がけの体験も必要かもしれません。
私たちの普段表に出ることのない眠っている可能性は、
生命の根源にあたるような場所にあり、
極限状態に近い体験をすることで引き出されることが多いものです。

これまでの時代は、ひとつの既製の目標に向かってがんばることを求められ、
これからの一歩進んだ大人の時代は、
自らの可能性を求めるべく、自らの意志で自分自身を追い込み、
自分だけが持っている可能性を花開かせる時です。


人間の持っている能力、可能性を大きく花開かせている人と接すると、
心の中から生命エネルギーがわき上がってくるのを感じます。

今日ネットで、事故で両腕をなくし、
足でピアノを弾く劉偉さんという若者が紹介されていました。

足でピアノを弾く劉偉さん

彼は中国のオーディション番組に出演し、
両足で見事なピアノ演奏を聴かせた後、こう語っています。

僕の人生には道が二つあるんです。
さっさと死ぬか、一生懸命生きるか。


彼の語る “一生懸命” が、生半可なものでないことは容易に想像がつきます。
審査員の男性が、
「あなたの奏でる音楽を聴くと、日頃の不平不満を忘れます」
と話していましたが、これは万人に共通する意見でしょう。

それはくだらないことで悩み、愚痴をこぼしている自分が恥ずかしくなるのと、
彼のように人間の持つ可能性をフルに発揮している人を見ると、
自分の中にもある、彼と同じ無限の可能性の存在を思い出すからではないかと
思われます。




今から約50年前、サリドマイドという薬の薬害で、
日本で(外国でも)たくさんの四肢に欠損のある赤ん坊が生まれました。
ちょうと私と同じ世代です。

「典子は今」で有名な辻典子さん(現在は白井典子さん)は、
そのサリドマイドで生まれつき両腕がありません。
私の若い頃、NHKで放送された彼女のドキュメント番組をビデオに録り、
何度も繰り返し見てはそのたびに涙を流しました。

それは可哀想という同情の涙ではなく、
障害をものともせず、懸命に生きる姿に心打たれるからです。
一人暮らしをし、バスに乗って一人で料金を払えるよう工夫をし、
洗濯をし、その洗濯物を乾かし、
取材スタッフにはジャガイモを包丁で切ってカレーライスを作りご馳走していました。

彼女と比べたら、
私たちは本来持っている能力を何パーセント使って生きているのでしょうか。
10パーセントでしょうか、5パーセントでしょうか、
もしかしたら3パーセントぐらいかもしれません。

 

がんばる必要はありません。
けれども、私たちが手にしている素晴らしい可能性を、
このたびの人生で生かさず眠らせてしまうのは、
最高にもったいないことであり、後で必ず後悔するはずです。

可能性、能力、適正、与えられたもの生かすのは、
真我が望んでいる最高の願いです。


私の使っている英語テキストに、目も耳も不自由であるにも関わらず、
大いなる業績を残したヘレンケラーの話が載っていますので、
最後にそれをご紹介いたします。

"Life" , she said , "is either a daring adventure or it is nothing ."

「人生は、大胆な冒険をしなれければ、何も得られない」と彼女は言った。


2010.11.19 Friday  
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